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2024年10月29日火曜日

フランスのピアノバルロン修復1905年製プレイエルで録音した池田珠代さんのCD

 


フランスのピアノバルロンのシルヴィー・フアノンさんが修復した1905年製プレイエルのコンサートグランドピアノで池田珠代さんが録音したCDが発売されました。
フォーレとショパンのノクターンを交互に演奏している、素敵なCDです。
ピアノは1905年製プレイエルのフルコンサートグランドピアノ、モデルNo.1 (2m78)、当時のプレイエルの最高級モデルです。
深い低音の響きと繊細な高音が魅力的で、ピアニストの池田さんが見事に弾きこなし、素晴らしく繊細な音色を聴くことができます。
モダンピアノでは、このようなフォーレやショパンを聴くことはできないと思いました。
ご興味のある方は、Amazonなどで購入できますので、探してみてください。


STOP WAR !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2022年8月9日火曜日

ジャン・ジュード著「カミーユ・プレイエル - フレデリック・ショパン 才能の集結」

 


Jean Jude「Camille Pleyel - Freseric Chopin  Les talents réunis」
ジャン・ジュード著「カミーユ・プレイエル - フレデリック・ショパン 才能の集結」

フランスで出版されました。
600ページ、内容の濃い本です。
プレイエルとショパンそれぞれの人生、プレイエルのピアノ製作、ショパンの作曲と演奏活動・・・お互いに連携し影響しあい、そして偉大な仕事を成し遂げた歴史の物語を、細かい調査研究に基づいて書かれています。
フランス語です。資料も満載。
ご希望の方には、12,000円(送料込み)でお送りできます。
(フランスからの取り寄せに1冊1万円かかっておりますので、ほぼ原価です)


STOP WAR !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

2021年5月17日月曜日

ロングセンターピンの取り付け方


ピアノ技術者の方へ
戦前のプレイエルピアノなどに良く見られるロングセンターピンの取り付け方を、動画で説明してみました。
取り付け方の手順はこちら:

2020年3月25日水曜日

プレイエルの本





Jean Jude著 「Pleyel 1757-1857   La passion d'un siècle...」
      (プレイエル 1757年~1857年 世紀を駆けぬけた情熱)

プレイエルの歴史を、写真や資料を交えてまとめた興味深い本です。
新品の在庫が2冊ありますので、ご希望の方にお送りできます。
文章はフランス語です。
プレイエルの歴史、ショパンとプレイエルの関係、フランスのピアノ製造業界のこと、プレイエルとエラールとの関係など、著者の視点で研究をまとめています。
美しい写真や絵画が多いので、眺めているだけでも楽しいです。

価格は、1冊13,000円(送料込み)です。
ご希望の方はご連絡ください。
連絡先:akiko@francepiano.jp



2017年9月19日火曜日

ショパンとプレイエル10

ピアノを弾くショパン(1838年)
(wikipediaより)

ショパンの左手
(gallica.bnf.frより)


10. 終わりに、私見

ショパンは生徒を指導する時、「簡単に、簡単に弾きなさい!」「指で歌うのだ!」と言ったそうです。

ショパンの弾き方は、決して力で弾かず、手首を使わず、流れるようで、自由自在で、魂があり、ファンタジーがあり、優雅で明確で輝かしい・・・。
完全に独立した指を持ち、安定して強さのある左手を持ち、演奏時には腕や頭や体の動きが全くない・・・。
決してピアノを叩かないので、絶対にキンキンした音色がピアノから出ない・・・。
格調高く、調和に満ちており、完璧・・・。
「Sylphe musical」「Sylphe du piano」とも言われたそうですが、Sylpheというのはケルト伝説に出てくる空気の精、つまりショパンは「音楽の妖精」「ピアノの妖精」ということになります。

彼についての評の数々からショパン像が浮かび上がってきます。
ピアノの中から現れた妖精が歌を歌うようにピアノを奏でるのですから、軽くてエレガントで輝かしいイメージです。

ショパンは、軽くて指先の微妙な感情が音に直結するようなピアノを求めていたに違いない、と思えます。
ショパンがポーランドやウィーンにいた時代にウィーン式アクションのフォルテピアノを多く弾いたに違いないことと、プレイエルがシングルアクションの流れを大切にしたことが、私の中でつながります。
シングルアクションでは、鍵盤と弦を叩くハンマーとの間をつなぐメカニズムが少なくシンプルなので、指先の感覚がダイレクトにハンマーに伝わります。
ダブルアクションでは、中間にメカニズムを入れたことでハンマーの素早い動きを可能にし、連打がしやすく反応の良い弾きやすいタッチを持ちます。
シングルアクションではハンマーがもたつくので、圧倒的に弾きにくいのですが、有能な指を持っている場合には、上手に弾けてしまいます。
繊細な感覚と有能な指を持つピアニストにとっては、指先の感覚が直に伝わるシングルアクションの方が、より微妙な感情を表現できる、指の息づかいが音色に現れるような歌い方ができるのかもしれません。
微妙なことにはこだわらず、もっと大きく音楽をとらえ、ダイナミックさを求めるピアニストにとっては、ダブルアクションの方が神経質にならずに済み、大きな流れの音楽を実現しやすいでしょう。

イグナーツ・プレイエルとカミーユ・プレイエルは、イギリス式シングルアクションにこだわり続けました。
シングルアクションの方がよりダイレクトに奏者の思いが伝わると考えていました。
1863年、Auguste Wolffの時代に、プレイエル社は世の中に遅れてダブルエスケープメントアクションを取り入れましたが、ダブルアクションに移行していく中でも、シングルアクションに近いようなタッチを求め続けたと思われます。
いつまでもロングセンターピンにこだわり続けたのも、その理由からなのではないか、という気が私にはしています。
ロングセンターピンは調整しにくく不便ですが、フレンジ型のセンターピンより抵抗が少なく軽い動きが得られるのではないか、と思うのです。
そしてそれが、ショパンの求めたタッチを受け継ぐ流れの一つではないでしょうか。
本の著者はここまでは言っていませんので、あくまでも私の個人的な意見で、正しいかどうかは分からないのですが。

ショパンが、「元気な時にはプレイエルを弾く」というのは、指先の微妙な感覚までコントロールできるくらい元気な時には、プレイエルを弾くと思う通りの音色を出せる、ということなのです。
「元気のない時にはエラールを弾く」というのは、エラールはどう弾いても美しい音色が出るからだそうです。
エラールは、叩いても打っても、指先の神経を尖らせなくても、いつでも同じように美しい音色で歌える、響きに満ちた楽器でした。
ショパンから33回のレッスンを受けたEmilie von Gretschという人は、「自分のエラールピアノで弾くのと同じ弾き方でショパンのプレイエルピアノを弾くと、硬くて粗暴で汚い音が出てしまう。」と言ったそうです。
いつでも美しい音の出るエラールピアノも素晴らしいですが、どうも元気な時のショパンは違うものを求めていたようです。

ショパンの人生、プレイエルの人生から多くのことを学びました。
今後も修復を通してピアノと向き合いながら、プレイエルピアノに込められた先人の思いを感じることができたらと思います。
歴史の異なる様々なピアノが存在し、私たちに何かを語りかけてきます。
違いを認め、個性を見つけ出し、活かす修復をしていきたいと思っています。
(終わり)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月18日月曜日

ショパンとプレイエル9

ワルシャワのショパン博物館に保存されている、ショパン最後のピアノ
(wikipediaより)

マヨルカ島のショパン博物館に保存されている、ショパンが使ったピアニーノ
(wikipediaより)



9. ショパンのピアノ

ショパンが使ったピアノについては、多くの研究者が相当な熱意を持って調べてきました。
謎も多いようですが、現在残されているピアノでほぼ確実にショパンが使ったことがわかっているのは、プレイエルピアノ7台、ブロードウッド1台で、いずれも博物館に保管されています。
それ以外にも、ショパンは数多くのピアノを弾きました。
彼は移動するたびにピアノを取り替えましたし、ピアノが日々改良され、毎年新しいピアノが生み出されていた時代ですので、ショパンも次々と新しいピアノを迎え、生涯で随分多くのピアノを持ちました。
そのすべての記録はありませんので、一体ショパンが何台のピアノを弾いたのかは分かりません。
ただ、その大部分がプレイエルピアノで占められていたことは確かです。

ショパンはなぜプレイエルが好きだったのでしょう?
仕事上の相互利益があっただけでプレイエルと付き合っていたわけではないことは、これまで見てきて明らかです。
プレイエルピアノなくしてはショパンの曲は生まれず、ショパンなくしてはプレイエルピアノは発展しなかった、それほど深い関係の理由は何なのでしょう?
そして果たしてプレイエルピアノに、ショパンの痕跡が残っているのか?
残っているのならそれは何なのか?

この本の中で、著者が一番探りたい問題はそこにありました。
著者もはっきりとした結論は出していません。
著者は、ショパンが弾いたピアノを研究することや、その時代の楽器でショパンを演奏してみることが大切なのはもちろんのことだが、それにとどまらず、修復された昔の楽器を演奏することや、ショパンの時代にはまだなかったモダンピアノでショパンを演奏してみることもまた、ショパンを理解する上で参考になると言っています。
プレイエル社の資料から読み取れることを検証し、またショパンの楽譜から読み取れることを考察し、多方面から総合的にアプローチした著者は、ショパンの曲は当時のプレイエルピアノのキャパシティーを超えていた、と考えています。

ではショパンの求めるピアノとはどんなピアノだったのか?
ショパンの音楽を真に実現できる楽器とはどんな楽器なのだろう?
後世のプレイエルはそれを実現できただろうか?他のメーカーはどうだろうか?

本の最後は、「おそらくすべては始まったばかりだ。」という言葉で結ばれています。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月17日日曜日

ショパンとプレイエル8

「ショパンの死」F.J.Barrias
(gallica.bnf.frより)

「死の床にあるショパン–Albert Graeffeのデッサンより)
(gallica.bnf.frより)

1840年のマドレーヌ寺院
(gallica.bnf.frより)

ショパンの墓
(wikipediaより)


8. 別れ

二人に別れの時がやってきました。
ショパンはプレイエルより22歳も若いのに、先に天国へ旅立ってしまいました。
旅立つ1年前の1848年11月、ロンドン旅行からパリへ帰るとき、憔悴しきったショパンは友人に手紙で、「どんなピアノでも良いから木曜の夜に送り届けてくれるよう、プレイエルに伝えて欲しい。ピアノには覆いをしておいてくれ。金曜日にはスミレの花束を買ってサロンを良い香りにしておいておくれ。私が家に帰ってサロンを横切り寝室へ入るまでの短い時間に、少なくとも少しは詩的な感じを受けられるように。私は間違いなく長時間眠るだろう。」と言ったそうです。
その時プレイエルがショパンに送ったピアノが、ショパンの最後のピアノになりました。
1849年10月、最期の時には、親しい友人たちがショパンに会いに行きました。
カミーユ・プレイエルも行きました。
息を引き取る前々日には、歌手のDelfina Potockaがピアノを弾きながら歌をショパンに聴かせました。
ワルシャワから姉のLudmikaも来ました。
そして、10月17日、ショパンは息を引き取りました。

マドレーヌ寺院で葬儀の後、ペール・ラシェーズ墓地まで柩を運びました。
当時の習慣で、故人の柩にかぶせる布の四隅に黒いひもを付け、生前もっとも親しい友人だった4人がそれを持って歩く、というものがあったのですが、カミーユ・プレイエルはその中の一人となりました。
他の3人は、ベルリオーズ、フランショーム、マイアベーアでした。
プレイエルが呼びかけ、ドラクロワが委員長となり、ショパンの墓に記念碑を建設する会が結成され、一周忌の命日に設置されました。
また、ショパンの墓の管理はプレイエル社が引き受けました。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月16日土曜日

ショパンとプレイエル7

カミーユ・プレイエルの筆跡
(gallica.bnf.frより)


ショパンの筆跡
(gallica.bnf.frより)



7. すれ違い

仕事仲間としても友人としても協力し合っていたショパンとプレイエルの間にも、溝ができ仲違いをした時期がありました。
1838年〜1839年ごろのことです。
ショパンがジョルジュ・サンドとのマヨルカ島滞在を終え、サンドの館のあったノアンへ移る頃でした。
ショパンはお金に困っており、作曲した楽譜の版権を高く売ろうとしました。
いくつかの出版社に交渉を持ちかけたのですが、長年の付き合いがあったにも関わらずプレイエルにはとりわけ高値を言ったそうです。
それでプレイエルが怒ったのかどうかは、記録には残っていませんが、ショパンの手紙に対し2ヶ月くらい返事をせず沈黙していたようです。
ちょうどその頃、プレイエルも経済難に陥っており、以前のようにショパンの楽譜出版を保証できない事情もあったそうです。
結局、マヨルカ島へ旅立つ前にプレイエルに約束していた24のプレリュードの版権も別の出版社が買い、1839年の夏にCatelinという会社から出版されました。

1839年5月にノアンのサンドの館へ到着した時には、サンドがショパンを喜ばせようと内緒でプレイエルに連絡し送らせておいたピアノが届いており、ショパンは喜びこのピアノで多くの曲を作曲しました。
その後ショパンがパリに戻った後も、1841年〜1846年まで毎夏をノアンで過ごしたため、プレイエルは毎年夏になると新しいピアノをノアンへ送り、秋にはパリへ引き取りました。
1841年には、送られたピアノをショパンが気に入らず、怒ってピアノを拳で叩いたという話があります。
その時ショパンが友人に宛てた手紙の中には、「エラールに乗り換えようか・・・」とこぼすフレーズもあったとか。
しかし結局プレイエルが別のピアノをすぐに送り、ショパンの機嫌も直ったそうです。

馬車でピアノを運んでいた時代ですので、ピアノを何度も送るのは相当大変なことだったと想像します。
様々な努力のおかげで、二人の関係も修復されたようですね。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月15日金曜日

ショパンとプレイエル6

ショパンのサロンコンサート
(wikipediaより)

リストのコンサート
(gallica.bnf.frより)


6. 仕事仲間として(2)

カミーユ・プレイエルにとっても、ショパンは重要な仕事仲間でした。
当時のパリには、一番老舗のエラールを筆頭として数多くのピアノ製作会社がありました(30とも100とも言われている)が、アーティストと組んでピアノ販売やコンサート企画が行われたため、有名アーティストの取り合いでした。
特に大きなライバル会社であるエラールはリストと組んでいましたので、対するプレイエルにとってショパンが重要だったことは想像できます。
リストは、作りが頑丈で音量が大きく、安定したタッチを持つエラールがお気に入りで、大きなコンサートホールでの演奏を好みました。
ショパンは、タッチが安定せず弾くのが難しいが、うまくコントロールした場合はより繊細なニュアンスを出すことのできるプレイエルが好きで、大きなコンサートよりサロンでのアットホームなコンサートを好みました。

このように、ピアノ製作家とピアニストはお互いに影響し合いながら個性を作っていくという、切っても切れない関係にありました。
エラールピアノなしにはリストの曲はあり得ませんでしたし、プレイエルピアノなしにはショパンの曲は生まれませんでした。
同時に、リストなしにはエラールピアノの発展はあり得ませんでしたし、ショパンなしにプレイエルピアノの個性は出来上がりませんでした。

また当時はまだコンサートホールでの演奏より、お金持ちの家でのサロンコンサートが主流でしたが、そのような場所でショパンがプレイエルピアノを弾いて、プレイエルピアノの宣伝をし、販売につなげることも多かったと思います。
さらに、ショパンはピアノ教師としても活躍し多くの生徒を持っていましたので、生徒のためにプレイエルピアノを選んだり、自分の使っていたピアノが古くなると弟子やショパンのファンだった上流階級の女性に売ったりしました。
プレイエル販売台帳の中には、なんと60人ものショパンの生徒や友人の名前が見つかったそうです。
中には複数台のピアノを購入した人もいます。
ショパンの生徒は180人程度いたと言われている(うち50人くらいは確実ではない)そうですので、少なくとも3人に1人はプレイエルピアノを買ったことになります。
プレイエルピアノの拡がりは、ショパンの力なくしては遂げられなかったかもしれません。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月14日木曜日

ショパンとプレイエル5

「24のプレリュード」
フレデリック・ショパンよりカミーユ・プレイエルに献呈
(gallica.bnf.frより)

「英雄ポロネーズ」1842年
(wikipediaより)


5. 仕事仲間として(1)

ピアニストのショパンとピアノ製作家のプレイエルは、お互いの仕事には欠かせない仲間同士でした。
ショパンは、作曲活動や演奏活動で常にピアノを必要としました。しかもどんなピアノでも良いわけではなく、作曲のためのインスピレーションが湧く音でなければならないし、自分の音楽表現を十分に実現できる音やタッチのピアノでなければなりません。
当時のピアノ製作業界は、試行錯誤を重ねながら発展していた時代にあり、完成し切ったピアノばかりがあったわけではありません。
プレイエルも創業してから20年余りしか経っていませんでしたので、常に試行錯誤、失敗も多くあったと思います。
プレイエルが送ってきたピアノを気に入らなかったショパンが怒って取り替えさせたという話もあります。
ショパンは繊細な感性の持ち主でしたし、気難しい面もあり注文が多かったことでしょう。
プレイエルは、ショパンの行く先々にピアノを送りました。パリの住まいのみならず、ジョルジュ・サンドと行ったスペインのマヨルカ島、ジョルジュ・サンドと過ごしたノアン、晩年に滞在したロンドン・・・と、どこへでもショパンの気に入るピアノを送りました。
マヨルカ島では最初、現地のピアノを調達して使っていたようですが、ショパンが気に入らず、プレイエルピアノが届くまで作曲活動が進まなかったそうです。
またロンドンでは、ブロードウッドやエラールなど質の高いピアノがあり、ショパンも評価して弾いていたそうですが、やはりフランスから送られたプレイエルピアノを多く弾いたようです。
ショパンの作曲活動はプレイエルピアノなしではあり得ませんでした。ショパンの曲はプレイエルピアノなしでは生まれませんでした。

また、プレイエル社は楽譜出版業もしていましたので、ショパンの曲の版権を買い、出版をしました。
ショパンは他にも取引のあった出版社を幾つか持っていましたが、プレイエル社との関係は中でも重要だったと思われます。

その他にも、プレイエルピアノがショパンの紹介で売れた時には価格の10パーセントのコミッションをもらうという契約もしており、プレイエルの台帳にはきちんと記載されています。
ショパンは多くのプレイエルピアノを売り、コミッションを受け取ったようですので、貴重な収入源となったことでしょう。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年



2017年9月13日水曜日

ショパンとプレイエル4

カミーユ・プレイエル
(gallica.bnf.frより)

フレデリック・ショパン
(gallica.bnf.frより)

4. ピアニストとして

カミーユ・プレイエルは優秀なピアニストでした。
作曲家でありピアニストであった父のイグナーツ・プレイエルに連れられて、1805年にウィーン旅行をした際には、ハイドンやベートーヴェンにも会い、17歳のカミーユはベートーヴェンの演奏に感銘を受けたそうです。
1826年、36歳の時に音楽家の道を諦め父のプレイエル社を継ぐ決心をしたそうですが、後の1834年に「カミーユ・プレイエルは、もしピアノ製作の仕事に没頭しなければ、今頃我々の最も優秀なピアニストの一人になっていたことだろう・・・」と音楽雑誌の記事に書かれています。
また、ショパンもプレイエルの演奏を高く評価しており、「今日モーツァルトの弾き方を知っている人はプレイエル以外にはいない。私が彼と一緒に4手のためのピアノソナタを演奏する時、私は彼から学ぶのだ。」と言ったそうです。

二人の弟子であったGeorges Mathiasは、二人の間に感じた類似性を後に思い出しながら書き残しています。
「音楽的な感情の繊細さや優雅さにおいて、ショパンとプレイエルは同等だったと思う。私はこれまで、どんなに二人が完璧に類似していたかを言い表し得たことがない。彼らは、同一のピッチで調律され完全に調和した2台の楽器のようだったのだ。お互いによく理解し合っていた。」
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月12日火曜日

ショパンとプレイエル3


23歳のショパン
(wikipediaより)


カルクブレンナー
(wikipediaより)



3. ショパンの名がパリに広まるきっかけ

1831年、カルクブレンナーはプレイエル社の一角を利用し、ピアノ学校を開きました。
生徒は8人(男性4人、女性4人)で3年間のレッスンが行われました。
この学校にショパンも参加し、カルクブレンナーに学びます。
最初はカルクブレンナーを高く評価していたショパンでしたが、次第に彼の限界を意識するようになり、独学で自由な奏法を追求していきます。
カルクブレンナーは伝統的、保守的なピアニストであり、ピアノ奏法のメソードをまとめて教本を出版するなど、教育者でもありました。
一方ショパンは、メソードなど必要としない自由で天才的なピアニストであり、カルクブレンナーやリストの奏法には反対でした。
カルクブレンナーの奏法には従わなかったものの、師に対する礼儀は欠かさなかったので、ショパンとカルクブレンナーは生涯親しく付き合いました。

当時のパリでは、外国人の若者がコンサートを開くことは容易ではありませんでした。
カルクブレンナーやカミーユ・プレイエルのおかげで実現したショパンのパリでの最初のコンサートは、1832年2月25日にサロン・プレイエルで開かれ、ショパンは自作のコンチェルトを発表する他、四重奏団やオーボエ奏者、歌手達を交えた様々なプログラムをこなしました。
このコンサートでは6台のプレイエルピアノが使われ、カルクブレンナー作曲の大ポロネーズを6台ピアノで演奏するという豪華な曲目も演奏されました。

このコンサートは大変な反響を呼び、パリの音楽界に新風をもたらしました。
ショパンの演奏は、「他に例を見ないオリジナリティー」「魂がある」「ファンタジーがある」「エレガント」「自由自在にピアノを操る」「優雅で明確で輝かしい」などと評価され、フレデリック・ショパンの名がパリに広まる結果となりました。
この時、リストもコンサートを聴きに来て大変褒めたそうです。

そしてこのコンサートを通してショパンとカミーユ・プレイエルの関係が築かれ、生涯続いていくこととなりました。
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月11日月曜日

ショパンとプレイエル2

1831年のパリ
(gallica.bnf.frより)

1834年のパリ
(fr.wikipedia.orgより)


2. 始まりは1831年

ショパンがパリに来たのは、1831年10月のことでした。
ワルシャワ→ウィーン→ミュンヘン→シュトゥットガルト→ストラスブールと移動し、21歳のショパンは一人の知り合いもいなかったパリにやってきました。
ワルシャワやウィーンの知り合いが書いてくれた紹介状を頼りに、パリの音楽界へと入っていったようです。
11月18日付の彼の手紙の中には、「ピアニストのカルクブレンナーと深く結ばれた・・」という言葉がありました。
ショパンは最初のうち、カルクブレンナーの演奏にとても感激していたようです。

この頃のカミーユ・プレイエルは43歳、1831年4月にMarie Mokeと結婚、11月に父のイグナーツ・プレイエルが死去、と激動の年を送っていました。
青年期はピアニストとして活躍していたカミーユ・プレイエルですが、1819年頃から父の片腕となっていき、1824年には音楽家をやめて父の会社を継ぐ決心をしました。
1826年にイグナーツ・プレイエルが引退、1828年にはカルクブレンナーがプレイエル社の経営に加わりました。
プレイエル社では楽譜出版、様々な楽器販売や貸出を続けながらピアノ製造にも力を入れ、ショパンがパリにやって来た1831年頃はピアノ製造部門が盛り上がってきていた頃でした。
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月10日日曜日

ショパンとプレイエル1

' Chopin et Pleyel ' 
Jean-Jacques Eigedinger著

1. はじめに

ショパンがプレイエルピアノを好んで弾いていたことや、カミーユ・プレイエル(プレイエル社二代目)と親しい関係にあったことはよく知られていますが、さらに詳しく知りたいと思い、二人の関係にスポットを当てて書かれた「ショパンとプレイエル」という本を読んでみました。
当時書かれて残されているショパンの手紙、新聞や雑誌に掲載された音楽界の批評、またショパンが関わったピアノについてのプレイエル社の資料などを詳しく検証しながら、ショパンとプレイエルについて、そして二人の関係についてまとめられた興味深い本です。
ピアノの写真や関係人物の肖像画、またショパン自筆の手紙なども紹介されており、眺めているだけでも当時の雰囲気に触れられるような気がする、そんな貴重な本でもあります。

パリで出会い、仕事仲間となり生涯の親しい友人となったショパンとプレイエルには、どんな出来事や心の交流があったのでしょうか。
ここでは、私なりに印象に残ったことをご紹介してみたいと思います。

まず今日は、二人の基本情報をまとめておきます。


フレデリック・ショパン
1810年3月1日(異説あり)生
1849年10月17日没
ポーランド・ワルシャワ出身
ピアニスト、作曲家、ピアノ教師

カミーユ・プレイエル
1788年12月18日生
1855年5月4日没
フランス・ストラスブール出身
ピアノ製作家、楽譜出版業(プレイエル社2代目)


(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年7月3日月曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較6

現在私が修復中のプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6720 (1838年製)


比較の結論

ショパンがプレイエルから購入したと記録されているピアニーノ6668と現在私が修復中のピアニーノ6720が、構造も材料も製造技術もほぼ同じだというこの結論は、私たちをワクワクさせるものです。
ショパンがプレリュードを完成させたピアノとほぼ同じピアノを私は今修復しているのです。

修復は、当時の製造の手法を尊重しながらも、現在手に入る材料を用いて行うため、当然ショパンの時代と完全に同じ音色やタッチにはならないでしょう。
しかしながら、まずまず似たような音色やタッチは得られるに違いなく、それは、ショパンが聴いていた音や感じていたタッチのイメージを知るために役立つのではないかと、私は思います。
現代の材料や技術でピアノを修復することに反対する方もいます。
それはピアノの再現にはならないので意味はないという意見です。
しかし私は、やはり消耗品は現代の新しい材料で修復しなければ若々しい音やしっかりとしたタッチは得られないと思いますし、そうしなければ楽器として使用に耐えるものができないと考えます。
修復が中途半端でショパンの音楽を奏でた時に音楽にもならない、というのでは意味がないと思います。
どちらにしても、時代も空気も人の技術も何もかもショパンの頃とは異なる現在の環境で、完全な楽器の再現はできないのですから、私たちができる範囲できちんと修復し、音楽を奏でる中で何らかのイメージを得ることができるのなら、それは現代の私たちにとって意味があるのではないでしょうか。
そしてショパンから私たちへのメッセージを知ることができる方法の中の、少なくとも一つにはなり得るのではないかと私は思っています。

考え方はそれぞれですし自由ですが、私はこの比較を通して、ショパンの弾いたピアノにかなり近いピアノが縁あってはるばる日本の私のところへやってきたのですから、何としても修復を成功させてみなさまに弾いていただきたい、楽しんでいただきたい、という思いを今新たにしています。
(終わり)

2017年7月2日日曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較5


現在私が修復中のプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6720 (1838年製)


ショパンのピアニーノと現在私が修復中のピアニーノとの比較2

プレイエル社の記録をさらに細かく見て、比較してみました。
プレイエル社の工場の記録台帳には、各ピアノについて、各工程が完成した日と仕事をした職人の名前が記載されています。
1. ケース担当
2. 響板担当
3. 張弦担当
4. 鍵盤担当
5. アクション担当
6. 仕上げ担当
7. 大屋根担当
8. 金属担当
9. ニス担当
10. 調律担当

記載のある項目はピアノによっても違うのですが、6668と6720のピアニーノについては、このうち7つの項目について記載がありました。

1. ケース担当
6668=Beckさん
6720=Beckさん

2. 響板担当
6668=Niderreitherさん
6720=Niderreitherさん

4.鍵盤担当
6668=Genlisさん
6720=Pelemannさん

6. 仕上げ担当
6668=Bernierさん
6720=Bernierさん

8. 金属担当
6668=Wuilhorgueさん
6720=Bauryさん

9. ニス担当
6668=Wentsenssenさん
6720=Wentsenssenさん

10. 調律担当
6668=Schindlerさん
6720=Schindlerさん

上記のように、6668のピアニーノと6720のピアニーノでは、7項目の作業工程のうち5項目を同じ職人が担当したことがわかりました。

この比較の結論は、ショパンが購入した6668のピアニーノと現在私が修復中の6720のピアニーノとは中身がほぼ同じ、ということです。
外装は異なりますが、中身の構造は全て同じです。
製造された時期もほぼ同じ、ということは材料も同じだったと思われます。
それに加えて、ピアノ製造を実現させた職人がほとんど同じ担当者でしたので、技術もほぼ同じということになります。

それにしても、179年前のプレイエル社でどのピアノのどの部分が何という名前の職人によって作られたのかを調べることができるなんて、すごいことですね。
(続く)

参考資料:
ARCHIVES PLEYEL (http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/archives.html)

2017年7月1日土曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較4

マヨルカ島ヴァルデモーサでショパンが使ったとされるプレイエル
製造番号:6668 (1838年製)
(http://gallica.bnf.fr/より)


現在私が修復中のプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6720 (1838年製)


ショパンのピアニーノと現在私が修復中のピアニーノとの比較1

ここまでご説明してきたように、マヨルカ島ヴァルデモーサに現存するピアニーノが本当にショパンが使っていたものだったのか、ということに疑問は残るのですが、プレイエル社の記録の範囲内で、ショパンが購入したピアニーノと現在私が修復中のピアニーノとの比較を試みてみることにしました。
この比較では、2台が製造過程の中でとても近いことがわかり、あらためて自分の仕事の意義を感じている次第です。

1. ピアノの構造
6668=ピアニーノ、6オクターブ1/2、2本弦、2本ペダル
6720=ピアニーノ、6オクターブ1/2、2本弦、2本ペダル

2. 外装
6668=マホガニーの普通タイプの木目で装飾なし
6720=ローズウッドの木目で真鍮の象嵌と装飾付

3. 価格
6668=1200フラン
6720=1500フラン

4. 製造開始
6668=1838年5月
6720=1838年6月

5. 完成
6668=1838年9月
6720=1838年8月

6. 購入者
6668=Chopin / Paris
6720=Roger / Paris

7. 支払い完了
6668=1839年6月
6720=1838年10月

ここまでで分かることは、この2台のピアノは構造が全く同じで外装のみが異なる(=価格が異なる)ということ、ほぼ同じ時期にプレイエル社の工場で製造されたということです。
(続く)

参考資料:
ARCHIVES PLEYEL (http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/archives.html)

2017年6月30日金曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較3

ショパンとサンドが滞在したヴァルデモーサの修道院 (1930年撮影)
(http://gallica.bnf.fr/より)

ショパンとサンドが滞在したヴァルデモーサの修道院 (1930年撮影)
(http://gallica.bnf.fr/より)


背景その3

ショパンは、マヨルカ島への旅へ出発する前に、プレイエル社を訪れています。
1838年10月のことです。
この際、すでに作曲を始めていてこれから完成させるプレリュードの版権をプレイエルに2000フランで譲る提案をし、前金として500フランを受け取りました。
またその時、プレイエルはマヨルカ島へピアニーノを送る約束をしました。
ピアノ代金は後払いで良いということになったようです。

証明はありませんが、ショパンが購入したピアニーノが1838年9月に完成されていることとショパンが10月にプレイエル社を訪れてピアノの発送を依頼したことから、この時にショパンがピアノを実際に見て選定したのではないかと思われます。
あるいはもっと前に注文していたかもしれませんが、10月の訪問時には完成品を確かめたことでしょう。
ショパン自身が選んで購入を決めたピアノだったということも、私たちには大変興味深い事実です。

1839年1月22日付のショパンからプレイエルへの手紙には、ピアノが「海路と悪天候と、そしてパルマの税関にもかかわらず、望み得る最良の状態で着いた」ということと、「お送りするプレリュードを貴殿からのピアニーノで仕上げた」ことが書かれています。
この手紙から、ショパンがピアニーノに満足したことや、このピアニーノで実際にプレリュードを完成させたことが証明されています。
また、サンドは著書「マヨルカの冬」の中に「三週間交渉して四百フランの関税を払うことで、税関吏の手から奪い返したプレイエルの小型ピアノのすばらしい音色は、僧坊の高い丸天井に響きわたった」と記しています。
ヴァルデモーサの特殊な環境とショパンやサンドの心理状態を考えると、その音色がどんなに美しく神秘的に響き、彼らの心の慰めとなったことか、それは我々の想像をはるかに超えるものであっただろうと思うのです。
(続く)

参考資料:
「マヨルカの冬」ジョルジュ・サンド著、J-B・ローラン画、小坂裕子訳、藤原書店発行
「ジョルジュ・サンドからの手紙」ジョルジュ・サンド、持田明子編=構成、藤原書店発行
ARCHIVES PLEYEL (http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/archives.html)

2017年6月29日木曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較2

プレイエル台帳の1ページ

ショパンの名前が出ている部分


背景その2
フランスの音楽博物館に、昔のフランスピアノメーカーの記録が保存され、現存する資料をスキャンしたものをインターネットでも公開しています。
(http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/archives.html)
そこでは、エラール、プレイエル、ガヴォー、ボードの当時の記録を製造番号から調べられるように整理されていて、私もピアノの情報を調べるときによく利用しています。
この膨大な量の資料をまとめた方々には本当に頭が下がりますし、このような資料を後世に残し、役立てようとお金を出したフランスという国を私は尊敬します。

ショパンがマヨルカ島ヴァルデモーサに取り寄せたとされるプレイエルのピアニーノの資料もその中に残されており、購入者の名前が「Chopin」ということも確かに記録されています。
製造番号6668のピアノは、6オクターブ1/2のピアニーノで2本弦、2本ペダル、マホガニーの外装でした。
1838年9月に完成し、購入者はパリのショパン、価格は1200フランで1839年6月に支払われたことが記載されています。

ここで、専門家の間では疑問が生じています。
ショパンが購入したと記録されているピアノの外装と、マヨルカ島ヴァルデモーサに残されているショパンのピアノの外装に食い違いがあるからです。
製造番号とピアノの構造は一致しているのですが、プレイエル社の当時の記録では、ショパンが買った6668は、「マホガニーの普通タイプの木目で装飾なし」のもので、確かに当時1200フランの値段が付いていたものです。
ところがヴァルデモーサに残されている6668は、「マホガニーのイバラ模様の木目で装飾付き」で、当時1400フランで売られていたもののようです。
もう一点の食い違いは、現存する6668の鍵盤に残されている職人のサインが、プレイエルの記録の職人と同一ではないこと、そして鍵盤オサに刻まれた製造番号は6737であることです。
これもフランスのすごいところだと感心していることなのですが、プレイエル社の記録台帳には、各工程を担当した職人の名前が、一台一台のピアノについて残されているのです。
それによると、ショパンが購入したピアノの鍵盤を担当した職人の名前はGenlisですが、実際にこの6668の鍵盤に残されている職人のサインはLegrandとあり、一致しないようです。
そして鍵盤オサに刻まれた6737のピアノの鍵盤担当者は確かにLegrandと記録があります。
鍵盤オサ以外の部分に付けられている製造番号は、ピアノの中にいくつか残されているものを確認済みのようですし、ピアノ本体は6668に間違いなさそうです。
一体どうしてこのような食い違いが出たのでしょうか?
本当に現存しているヴァルデモーサのピアノがショパンのピアノだったのでしょうか?

答えはまだ出ていません。
この問題を研究している「Pleyel 1757-1857 La passion d'un siècle...」の著者Jean Judeさんは、著書の中で詳しく比較し、食い違いの可能性を提示しています。
一つは、ショパンがマヨルカ島を去る時にピアノを現地で転売した際、外装を貼り直され、鍵盤を取り替えられたのではないか、という仮説。
というのは、ショパンの病気の結核は伝染すると当時のスペインで極度に恐れられていたため、ピアノの購入者が病気が移るのを恐れて改造したのではないか・・。
もう一つは、プレイエル社の記録係の単純な間違いだったのではないか・・。
この本の中で答えは出ていません。
ただ、最近著者に問い合わせたところ、新しい発見をしたので次に出る本で発表する、という答えが返ってきました。
次の本は、今年中くらいには出る予定らしいです。
私も彼の新しい説を楽しみに待っているところです。
(続く)

参考資料:
「Pleyel 1757-1857 La passion d'un siècle...」Jean Jude著
ARCHIVES PLEYEL (http://archivesmusee.citedelamusique.fr/pleyel/archives.html)

2017年6月28日水曜日

現在私が修復中の1838年製プレイエル・ピアニーノとショパンが使用した1838年製プレイエル・ピアニーノとの比較1

マヨルカ島ヴァルデモーサに展示されている、
ショパンが使ったとされるプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6668 (1838年製)
(http://gallica.bnf.fr/より)


現在私が修復中のプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6720 (1838年製)


プレイエルと関係が深かったショパンは、ジョルジュ・サンドと共にスペインのマヨルカ島に滞在した際、プレイエル社に頼んでピアニーノをパリから取り寄せました。
そのピアノと現在私が修復中のピアニーノとは、製造年が同じで製造番号も近いことから、内容を詳しく調べ比較してみることにしました。

背景その1
ショパンはマヨルカ島に長期滞在するつもりでピアノを送らせたようなのですが、現地の様々な条件の悪さのため滞在を早く切り上げてフランスへ帰ったので、実際にこのピアニーノを使った期間はとても短かったようです。
1838年11月8日からマヨルカ島に滞在していたショパンはパリから送られてくるピアノを待ちに待っていましたが、12月21日にようやくマヨルカ島パルマに到着したピアノは税関で止められ、高い関税を要求されたため値下げ交渉に3週間かかり、実際にピアノがヴァルデモーサのショパンの家に届いたのは、1839年1月15日頃でした。
そしてショパンとサンドがマヨルカ島を去ったのが2月13日ですから、ショパンは1ヵ月足らずしかこのピアノを弾かなかったのです。
フランスへ帰る時にはまた税関での問題が起こると思われたので、このピアノは現地で売られました。
たった1ヵ月しか使わなかったピアノか・・とも思われますが、それでもこのピアノでプレリュードを完成させたこと、バラード2番やポロネーズ2曲、スケルツォ3番などの曲にも着手したことなどを考えると、1ヵ月の中身は我々の想像をはるかに超える深い内容だったのかもしれません。
また、ショパンの短い39年の人生を思うとき、1ヵ月の重さを感じずにはいられません。
実際ショパンは、プレイエルが届くまでの間現地で借りていたスペイン製のピアノに満足できず、プレイエル到着を大変喜んだようですので、やはりこのピアノの意味は大きかったでしょう。

マヨルカ島でのショパンとサンドの生活は、予想に反して苦しいものでした。
島の人々の不親切や意地悪、過酷な気象条件と生活の不便さ、そのため悪化していったショパンの病気・・・など当時の記録を読み想像すると、耐え難い地獄のような生活に思われます。
しかしそれに反して、マヨルカ島の自然環境は楽園のように素晴らしく、雄大な景色や豊かな植生に囲まれ、ショパンとサンドは天国にいるような感覚も味わったのです。
この特殊な環境の中にあって、並外れた感受性を持つ二人の芸術家の仕事がどんなに深く濃い内容のものであったかは、量り知れません。
そのようなショパンの仕事の手助けをしたプレイエルのピアニーノの存在の重さもまた、1ヵ月という時間では説明できないもののように思われます。
(続く)

参考資料:
「マヨルカの冬」ジョルジュ・サンド著、J-B・ローラン画、小坂裕子訳、藤原書店発行
「ジョルジュ・サンドからの手紙」ジョルジュ・サンド、持田明子編=構成、藤原書店発行