「24のプレリュード」
フレデリック・ショパンよりカミーユ・プレイエルに献呈
(gallica.bnf.frより)
「英雄ポロネーズ」1842年
(wikipediaより)
5. 仕事仲間として(1)
ピアニストのショパンとピアノ製作家のプレイエルは、お互いの仕事には欠かせない仲間同士でした。
ショパンは、作曲活動や演奏活動で常にピアノを必要としました。しかもどんなピアノでも良いわけではなく、作曲のためのインスピレーションが湧く音でなければならないし、自分の音楽表現を十分に実現できる音やタッチのピアノでなければなりません。
当時のピアノ製作業界は、試行錯誤を重ねながら発展していた時代にあり、完成し切ったピアノばかりがあったわけではありません。
プレイエルも創業してから20年余りしか経っていませんでしたので、常に試行錯誤、失敗も多くあったと思います。
プレイエルが送ってきたピアノを気に入らなかったショパンが怒って取り替えさせたという話もあります。
ショパンは繊細な感性の持ち主でしたし、気難しい面もあり注文が多かったことでしょう。
プレイエルは、ショパンの行く先々にピアノを送りました。パリの住まいのみならず、ジョルジュ・サンドと行ったスペインのマヨルカ島、ジョルジュ・サンドと過ごしたノアン、晩年に滞在したロンドン・・・と、どこへでもショパンの気に入るピアノを送りました。
マヨルカ島では最初、現地のピアノを調達して使っていたようですが、ショパンが気に入らず、プレイエルピアノが届くまで作曲活動が進まなかったそうです。
またロンドンでは、ブロードウッドやエラールなど質の高いピアノがあり、ショパンも評価して弾いていたそうですが、やはりフランスから送られたプレイエルピアノを多く弾いたようです。
ショパンの作曲活動はプレイエルピアノなしではあり得ませんでした。ショパンの曲はプレイエルピアノなしでは生まれませんでした。
また、プレイエル社は楽譜出版業もしていましたので、ショパンの曲の版権を買い、出版をしました。
ショパンは他にも取引のあった出版社を幾つか持っていましたが、プレイエル社との関係は中でも重要だったと思われます。
その他にも、プレイエルピアノがショパンの紹介で売れた時には価格の10パーセントのコミッションをもらうという契約もしており、プレイエルの台帳にはきちんと記載されています。
ショパンは多くのプレイエルピアノを売り、コミッションを受け取ったようですので、貴重な収入源となったことでしょう。
(続く)
参考資料:' Chopin et Pleyel ' Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年
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