2017年9月15日金曜日

ショパンとプレイエル6

ショパンのサロンコンサート
(wikipediaより)

リストのコンサート
(gallica.bnf.frより)


6. 仕事仲間として(2)

カミーユ・プレイエルにとっても、ショパンは重要な仕事仲間でした。
当時のパリには、一番老舗のエラールを筆頭として数多くのピアノ製作会社がありました(30とも100とも言われている)が、アーティストと組んでピアノ販売やコンサート企画が行われたため、有名アーティストの取り合いでした。
特に大きなライバル会社であるエラールはリストと組んでいましたので、対するプレイエルにとってショパンが重要だったことは想像できます。
リストは、作りが頑丈で音量が大きく、安定したタッチを持つエラールがお気に入りで、大きなコンサートホールでの演奏を好みました。
ショパンは、タッチが安定せず弾くのが難しいが、うまくコントロールした場合はより繊細なニュアンスを出すことのできるプレイエルが好きで、大きなコンサートよりサロンでのアットホームなコンサートを好みました。

このように、ピアノ製作家とピアニストはお互いに影響し合いながら個性を作っていくという、切っても切れない関係にありました。
エラールピアノなしにはリストの曲はあり得ませんでしたし、プレイエルピアノなしにはショパンの曲は生まれませんでした。
同時に、リストなしにはエラールピアノの発展はあり得ませんでしたし、ショパンなしにプレイエルピアノの個性は出来上がりませんでした。

また当時はまだコンサートホールでの演奏より、お金持ちの家でのサロンコンサートが主流でしたが、そのような場所でショパンがプレイエルピアノを弾いて、プレイエルピアノの宣伝をし、販売につなげることも多かったと思います。
さらに、ショパンはピアノ教師としても活躍し多くの生徒を持っていましたので、生徒のためにプレイエルピアノを選んだり、自分の使っていたピアノが古くなると弟子やショパンのファンだった上流階級の女性に売ったりしました。
プレイエル販売台帳の中には、なんと60人ものショパンの生徒や友人の名前が見つかったそうです。
中には複数台のピアノを購入した人もいます。
ショパンの生徒は180人程度いたと言われている(うち50人くらいは確実ではない)そうですので、少なくとも3人に1人はプレイエルピアノを買ったことになります。
プレイエルピアノの拡がりは、ショパンの力なくしては遂げられなかったかもしれません。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


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