2017年9月16日土曜日

ショパンとプレイエル7

カミーユ・プレイエルの筆跡
(gallica.bnf.frより)


ショパンの筆跡
(gallica.bnf.frより)



7. すれ違い

仕事仲間としても友人としても協力し合っていたショパンとプレイエルの間にも、溝ができ仲違いをした時期がありました。
1838年〜1839年ごろのことです。
ショパンがジョルジュ・サンドとのマヨルカ島滞在を終え、サンドの館のあったノアンへ移る頃でした。
ショパンはお金に困っており、作曲した楽譜の版権を高く売ろうとしました。
いくつかの出版社に交渉を持ちかけたのですが、長年の付き合いがあったにも関わらずプレイエルにはとりわけ高値を言ったそうです。
それでプレイエルが怒ったのかどうかは、記録には残っていませんが、ショパンの手紙に対し2ヶ月くらい返事をせず沈黙していたようです。
ちょうどその頃、プレイエルも経済難に陥っており、以前のようにショパンの楽譜出版を保証できない事情もあったそうです。
結局、マヨルカ島へ旅立つ前にプレイエルに約束していた24のプレリュードの版権も別の出版社が買い、1839年の夏にCatelinという会社から出版されました。

1839年5月にノアンのサンドの館へ到着した時には、サンドがショパンを喜ばせようと内緒でプレイエルに連絡し送らせておいたピアノが届いており、ショパンは喜びこのピアノで多くの曲を作曲しました。
その後ショパンがパリに戻った後も、1841年〜1846年まで毎夏をノアンで過ごしたため、プレイエルは毎年夏になると新しいピアノをノアンへ送り、秋にはパリへ引き取りました。
1841年には、送られたピアノをショパンが気に入らず、怒ってピアノを拳で叩いたという話があります。
その時ショパンが友人に宛てた手紙の中には、「エラールに乗り換えようか・・・」とこぼすフレーズもあったとか。
しかし結局プレイエルが別のピアノをすぐに送り、ショパンの機嫌も直ったそうです。

馬車でピアノを運んでいた時代ですので、ピアノを何度も送るのは相当大変なことだったと想像します。
様々な努力のおかげで、二人の関係も修復されたようですね。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


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