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2023年7月18日火曜日

エラールが100年間追求し続けた音

 

エラールというピアノメーカーは、1777年に最初のフォルテピアノを製作してから大体1900年頃までは、同じ方向性の音色を追求し続けていたメーカーでした。
その間、経営者は代わり、職人たちも入れ替わり、時代の流行も変化していたにも関わらず、同じピアノを作り続けていたということ、それは何かすごいものだなあと感じます。
世界では、時代の要求に合わせてどんどんピアノを変化させていった時代に、一体なぜエラールは頑固に同じものを作り続けたのか。それほどまでにこだわったエラールの音色というのは、どんなものだったのか。エラールピアノで作曲したベートーヴェンやリストやラヴェルたちが聴いていた音はどんな色だったのか。
たまたま、1857年製と1897年製のエラールの平行弦2m12という、40年違いの同じ大きさの2台のピアノが揃ったため、エラールの音色を考える材料になればと思い、弾き較べをしてみました。
その2台のピアノは、全く同じ色の音がして、同じ雰囲気を醸し出していました。
それは、同じフランスピアノでも、プレイエルやガヴォーとは違った、エラールの個性だと思います。
また、1900年以降、時代の流れに合わせて平行弦から交叉弦へと以降していき、アクションも変化させていくエラールピアノには無くなってしまった、最初のエラールが目指した方向性がそこにはあると思います。
個人的な関心のままに作成した動画ですが、もしご興味のある方がいらっしゃいましたら、ご覧ください。




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2022年2月24日木曜日

1842年製エラールのスクエアピアノ完成

 

お客様からの依頼により昨年から修復していた1842年製エラールのスクエアピアノが、予定より大幅に遅れてようやく完成しました。
昨年11月には完成すると思っていたのですが、甘かった、と反省しております。
いつも思うことですが、1800年代のピアノと1900年代のピアノの修復は全く違い、特に1800年代前半ともなると、思いもよらないところで苦労が続き、大変な時間がかかります。
今回のピアノもそうですが、本体の大変な作業が一通り終わったのであとは大丈夫だろうと思ってから、苦労がまた長く続きました。
何度もやり直し、手直しが続き、もう出来るだろうと思ってもまた問題が発生し、解体してやり直し、などということを延々とやっていました。

1800年代のピアノを修復するとき、やっている最中は、もうこんな古いピアノの修復はやめよう、これを最後にしよう、と思うのですが、完成して音色を聴くと、その圧倒的な魅力に苦労も忘れ、また修復したくなってしまいます。
古いピアノの修復が大変なのは、やはり木材が老化しているからですが、その音色の魅力もまた、木材が年齢を重ねたことによるものだと思います。
材料が弱っているからといって何でも新しくしてしまえば良いというものではなく、老化した材料をどこまで活かして修復できるのか、しかし同時に、この先長く使用に耐える楽器として甦らせなければ意味がないので、無理だと判断した場合は新しく作り替える、といった判断も必要で、その判断を迫られる場面が、古いピアノの修復では何度も何度もやってきます。
そして最後まで、果たして自分の判断が正しかったのか、という疑問は消えません。
完成した音色を聴くときでさえ、音色に感動して、あーこれで良かったなと思いながらも、頭のどこかで、もっと良いやり方があったのかも、と思ったりします。
けれども、その時の自分ができる限りの仕事をした結果ですから、良しと受け止めなければなりません。
完璧はあり得ない世界、答えのない世界で仕事をしながら、人生についても同じことが言えるのかもしれないなと、学ぶ毎日です。

1842年製ERARD スクエアピアノの音色


この後は、ずっとストップしていた1857年製エラールのグランドピアノの修復に戻ります。

2021年3月12日金曜日

ポストショパン時代のエラール VS プレイエル エラールの歴史

2014年に資料を調べながら書いたエラールの歴史を、読み直し、追加や訂正をして、一つのPDFにまとめました。
ご興味のある方は読んでみてくださいね。
こちらをクリック:エラールの歴史

2014年7月4日金曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その7

1905年製エラール

1905年製プレイエル
 
 
エラールとプレイエルの違いについての考察はこれで終わります。
19世紀にエラールやプレイエルが必死になってやっていた競争は、「個性の戦い」「こだわりの戦い」とも言えると思います。
その競争の中でピアノという製品の質を高め、たくさんの良いピアノ、個性的なピアノを生み出してきました。
どちらが一番、ということのない世界。「違い」が存在するということ。
今は、そのような戦いは見られなくなりました。
個性を尊重し主張する人は、個人レベルで細々と活動を続けることはありますが、エラールやプレイエルがやっていたような企業レベルでは難しくなりました。
それほど社会が均一化され、人々が同じものを求めるようになり、一番を決めたがり、違いが認められない。
こだわってピアノを作ってきたエラールもプレイエルも、最後は世界的な競争に負けて消えていきました。
 
これでいいのでしょうか?
19世紀のもの作りの精神から私たちが学ぶことがあるのではないでしょうか?
昔作られた個性的な良いピアノたちは、ヨーロッパでも時代遅れとなり次々に捨てられています。
修復にもお金がかかり、保存にもお金がかかるため、やむを得ない事情です。
私が修復できるピアノの数は一生にほんの数台で、ピアノを救うとも世の中に対して何か主張できるとも言えないレベルでしかないのですが、できる限りこの細々とした活動を続けていこうと思っています。
 
終わり。

2014年7月2日水曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その6

ショパン1833年
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 
ショパン時代のプレイエルの構造 
 
 
ショパンの残した言葉「私は気分のすぐれない時はエラールを弾き、気分の良い時にはプレイエルを弾く」というフレーズは有名ですが、これは簡略化されたもので、ショパンが書き残した全フレーズは次のようなものでした。
 
Si je n'ai pas la libre disposition de mes moyens, si mes doigts sont moins souples, moins agiles, si je n'ai pas la force de pétrir le clavier à ma volonté, de conduire et modifier l'action des touches et des marteaux, comme je le comprends, je préfère un piano dÉrard, le son se produit tout à fait dans son éclat limpide; mais si je me sens vaillant, disposé à faire agir mes doigts sans fatigue, sans énervement, je préfère les pianos de Pleyel. La transmission de ma pensée, de mon sentiment, est plus directe, plus personnelle. Je sens mes doigts plus en communication immédiate avec les marteaux qui traduisent exactement et fidèlement la sensation que je désire produire, l'effet que je veux obtenir.
 
私が自分の技術を自由に使いこなせる状態にないとき、私の指がしなやかさと素早さを持たないとき、鍵盤を自分の意志で操る力や鍵盤とハンマーの動きを思い通りに操り変化させていく力がないときには、私はエラールピアノを好む。透明な輝きをもつ音が自然と出てくるから。
しかし私が元気で、指を動かすことに疲れたり苛立ったりしない状態のときには、プレイエルピアノを好む。私の考えや感情をより直接的に、より私的に伝えることができるから。私の指が即座にハンマーへ意思を伝え、私のやりたいことや表現したいことを正確に忠実に実現してくれるから。
 
参考資料:RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)
 
続く。
 

2014年6月30日月曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その5

1861年製エラール
 
1858年製プレイエル
 

エラールとプレイエルの違いについて、
1834年に「Le Pianiste」という雑誌の中に書かれた記事がありますので、ご紹介します。

Vous donnerez donc un piano d'Érard à Liszt, à Herz, à Bertini, à Schunke; mais vous donnerez un piano de Pleyel à Kalkbrenner, à Chopin, à Hiller. Il faut un piano de Pleyel pour chanter une romance de Field, caresser une mazourka de Chopin, soupirer un nocturne de Kessler; il faut un piano d'Érard pour le grand concert. Le son brillant de ce facteur porte, non pas plus loin, mais d'une façon plus nette, plus incisive, plus distincte, que le moelleux de Pleyel qui s'arrondit et perd un peu de son intensité dans les angles d'une grande salle.

エラールピアノはリスト、ヘルツ、ベルティーニ、シュンケに与えるべきだが、プレイエルピアノはカルクブレンナー、ショパン、ヒラーに与えるべきである。フィールドのロマンスを歌うために、ショパンのマズルカを優しく奏でるために、ケスラーのノクターンでため息をつくためにはプレイエルピアノが必要であり、大ホールでのコンサートにはエラールピアノが必要である。エラールピアノの持つ輝かしい音は、プレイエルに比べて長くは伸びないが、明確さと鋭さがあり明るい。プレイエルの柔らかさは大ホールでは丸みを帯び、音の強さを少し失ってしまう。

参考資料:RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)

続く。

2014年6月28日土曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その4

 1907年製エラールの支柱
 
1886年製プレイエルの支柱
 
1882年製エラールコンサートグランドピアノ
 
 
エラールとプレイエルの職人の仕事について
 
ピアノ製作の中には様々な職人の仕事が含まれています。
木工職人、鉄工職人、外装の装飾をする職人、ニス塗り職人、鍵盤の象牙を貼る職人、アクションを組み立てる職人、弦を張る職人、など色々な職人の仕事が集まって一台のピアノが出来上がります。
昔の職人の仕事の質の高さにはしばしば驚かされるのですが、中でもエラールの仕事はため息が出るほど素晴らしいです。
ピアノを解体して触っているとわかりますが、隅々まで完璧、見えない部分も手を抜かない、仕事へのこだわりと姿勢の厳しさをひしひしと感じるのが、エラールです。
もともと家具職人の家だったからでしょうか、木工仕事は格別に完璧です。
質の高い仕事の集まりにより出来上がったエラールピアノには、何とも言えない風格や存在感があります。
 
一方プレイエルの仕事は、もちろん今の私達から見て尊敬すべき質の高さなのですが、エラールに比べると普通レベルです。
 
続く。

2014年6月26日木曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その3

1907年製エラールのアクション
 
1911年製プレイエルのアクション
 
セクションごとにセンターピンが繋がっているプレイエルアクション
 
 
エラールとプレイエルのタッチの違いについて
 
エラールとプレイエルは、19世紀前半から後半にかけてオリジナルアクションに改良を重ね、独自のアクションを完成させました。
そしてその頃には世界中が、もっと機能的でピアニストにとって弾きやすく技術者にとって調整しやすい完成されたアクションに統一されていったにも関わらず、1945年前後まで頑固に自社のアクションを使い続けました。
その結果、今の私たちにとって戦前のエラールやプレイエルのピアノはタッチが独特に感じられ、またピアノ技術者達には調整しにくいアクションが嫌われます。
しかしエラールやプレイエルにとっては、一世紀近くもかけて完成させた自慢のアクション、そこにはこだわりがあり理由があり、それをもっと便利なものが出来たからといって簡単に変えてしまうことはできなかったのでしょう。
 
エラールとプレイエルのタッチは全然違います。
どちらが弾きやすいと感じるかも、ピアニストによって違います。
どちらも個性的なタッチですが、これらは音とも密接に結びついていて、本来のエラールの音はエラールアクションでしか出ない、プレイエルの目指した音はプレイエルアクションでしか出せないのだ、と感じます。
 
では、それぞれのメーカーは何にこだわったのでしょうか。
1834年にエラール社がまとめた文章「PERFECTIONNEMENTS APPORTÉTS DANS LE MÉCANISME DU PIANO PAR LES ÉRARD, DEPUIS L'ORIGINE DE CET INSTRUMENT JUSQU'À L'EXPOSITION DE 1834' 」(エラール社によるピアノアクションの発展、この楽器の始まりから1834年の博覧会まで)の中には、エラールがどんな風に考えてアクションを改良していったかが書かれています。
技術者の間で多くの議論を重ねながら、またピアニストの意見も参考にしながら、発展していった様子です。
フォルテピアノ時代に発明された2種類のアクション「ウィーン式アクション」と「イギリス式アクション」、セバスチャン・エラールはこの両者の良いところをくっつけたアクションを作りたかったのだそうです。
「ウィーン式アクション」は鍵盤にハンマーが直接取り付けられているため、奏者の微妙な意思をハンマーに伝えやすく、正確で美しい音を出すことができます。
「イギリス式アクション」は鍵盤とハンマーの間にアクションを加えることで、安定したタッチと迅速なレペティションを実現することができました。
当時、ピアニストたちの好みも2つに分かれ、多くの議論と試行錯誤の中で、エラールは「イギリス式アクション」の方を好み、発展させ、現在のグランドピアノアクションの原型となる「ダブルエスケープメントアクション」を発明しました。
一方プレイエルは、「ウィーン式アクション」のタッチを好み、最終的にはイギリス式ダブルアクションの形を取りながらも、イギリス式シングルアクションの名残をとどめる形を作りました。
ハンマーと指との間になるべく多くのアクションを介さず、奏者の感情を直接音に伝えたかったのです。
 
両社のアクションには、利点も欠点もあります。
それは両社とも承知の上だったでしょう。その上で妥協し選択してきたのです、自社のこだわりを最優先して。
エラールのこだわりはタッチの安定感と均一さ、そして頑丈さ、ベースがしっかりしていなければ微妙な音楽表現はできないと考えていました。
その複雑なアクションで奏者の細かな感情表現をするのには高度な技術が必要なことを知っていましたが、奏者がそれを乗り越えた時には素晴らしい音が出ることも解っていました。
プレイエルのこだわりは、とにかく奏者の感情を伝えることのできるアクションでなければならないということ、そのためにはアクション内部の抵抗を最小限に抑えることが必要だと考えました。
ハンマーシャンクフレンジを採用せず、セクションごとに繋がった長いセンターピンの調整しにくいアクションをいつまでも使っていたのは、その方が抵抗が少なく軽やかなタッチが得られると考えていたためだと、私は思っています。
 
参考資料:RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)
 
続く。

2014年6月24日火曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その2

1907年製エラール
 
1905年製プレイエル
 
エラールとプレイエルの目指した音の違いについて
 
エラールは、「オーケストラの響き」をピアノで実現しようとしていました。
また、フォルテピアノからの流れを受け継ぐ音、つまり一つ一つの音がはっきりしていて明るく、音量を増やすよりも木の響きの美しさを大切にしていました。
それが、エラールが平行弦のピアノにこだわり続けた理由です。
低音から高音まで同じ音色ではなく変化に富むこと、それでいてまとまりはなければならない、とエラールは考えていました。
まさにオーケストラです。
今回私は1907年製のエラールを修復しましたが、最初に音を出した時、低音の音の伸びに感動しました。
低音が朗々と歌うのです。コントラバスの音のように聞こえます。
高音が美しく歌うプレイエルとは対照的だと思いました。
エラールの高音は歌うというより、コロコロとしていて飾っている感じです。
また、低音から高音まで音色は確かに変化しているのですが、ばらばらな感じは全くせず違和感がありません。
これがエラールの目指した「オーケストラ」か、と思いました。

プレイエルは、創始者もその息子も作曲家であり演奏家でしたので、家具職人の家に生まれ楽器職人となったエラールとは出発点が違います。
目指す音の違いも、そこに起源があるように私は思っています。
カミーユ・プレイエルの親しい友人だったショパンやその他の音楽家たちからも強い要求があったでしょう。
もっと歌いたい、もっと歌ってほしい、という気持ちがピアノ作りに反映され、ロマンティックな感情表現のできるピアノとなりました。
明るくクリアーで迷いのない音色のエラールとは違い、丸みがありしっとりとしていて、明るく歌う背景には暗さや深い色も備えられているし揺れもある、
それが何ともいえない魅力となったピアノがプレイエルです。
世界を大きく捉えて音楽家の表現を支えようとしたエラールとは異なり、プレイエルは人間感情に近いピアノを作ろうとしたのではないか、と私には思われます。

続く。

2014年6月23日月曜日

エラールとプレイエルの違いについての考察 その1

エラール
 

プレイエル
 

フランスピアノの2大老舗であるエラールとプレイエル、
何台も修復を経験する中で、この2つのメーカーの個性の違いは何だろう、ということをよく考えさせられます。
同じフランス的な雰囲気を持ちながら、2つの個性は確かに全く違い、当然弾く人の好みも分かれます。
歴史的にも、2つのメーカーは競い合い、それぞれの個性を主張し合ってきました。
どちらが一番ということのない、個性の戦いというのは面白いものだなあと思います。
私はずっと漠然とした違いを感じていただけで、はっきりと言葉には表せなかったのですが、
この頃頭の中で少しずつクリアになってきたように思っています。
それはたぶん、自分一人ですべての修復を行った経験によってまとまってきたイメージと、
資料を読むことによって言葉にする助けを得たことのおかげです。
一台のプレイエル、一台のエラールと正面から向き合い、とことん付き合って最後まで修復を完成させたこと、
それはつまり楽器とお話し、100年、150年前に真剣になって楽器を作っていた製作者とお話したということだと思っています。
昔の楽器の修復はそのような意味でとても楽しい仕事です。
今後も、自分の感性を磨くことでより深く先人たちとお話できることを目指しています。

私の感じている2つの個性ですが、最終的には立体感覚的なイメージとなりました。
エラールは建築物のように立体的、オーケストラのように構成された音の集まりにより、幅広く深い世界観を表現すべく作られたピアノ。
プレイエルはどこまでも横に長く歌い続けるソロの歌手のような性格、耳に優しく柔らかい声で歌うソリストの背景に印象派の絵のような雰囲気を添える伴奏が付き、人の感情を表現するために作られたピアノ。

そんな風なイメージが今私の中で出来てきました。
ただしあくまでも個人的な見解ですので、皆様にはご自由に感じていただきたいと思っています。
続く。

2014年3月14日金曜日

エラールの歴史 その15

交叉弦・総鉄骨
 
平行弦・組み合わせ鉄骨
 


エラールの歴史 その15

19世紀の後半、鋳物で作られた一体型の総鉄骨が発明され、世界のメーカーがみな交叉弦・総鉄骨に移行していった中で、エラールはいつまでも平行弦・鉄のバーと板との組み合わせ鉄骨にこだわっていた。
エラールのこだわりは何だったのか?

ピアノ研究家のルネ・ボーパン氏は、歴史の中に二つの流れ=二つの価値観の違いを見ている。
1.新しい価値観=交叉弦・総鉄骨
  スタインウェイを始めとし、世界中のピアノメーカーがモダンピアノに求めたものは、大きな音、強い低音と輝かしいキラキラした高音、均一な音色+安く作れる鉄骨(鋳物の総鉄骨)
2.伝統的な価値観=平行弦・組み合わせ鉄骨
 
  エラールがこだわった音は、明確ではっきりしていて繊細な音(チェンバロからの流れ)、低音から高音まで変化のある音色(オーケストラの音を実現できるピアノ)+軽い鉄骨(組み合わせ鉄骨)

エラールのこだわりは、フランスの伝統的なピアノ奏法にも通じている。
フランスの弾き方は、「力で弾かない」「真珠のような音を出すような弾き方」
それに対してモダンピアノの世界では、エネルギッシュであること、大きな音量と速さ、かたいタッチが求められる。

エラールが大きな音量を求めなかったことは、コンサートグランドピアノの大きさにも表れている。
エラールのコンサートグランドピアノは、2m60を超えなかった。
エラールは、2m60を超えると伝統的なクオリティーを失うと考えていた。
世界のピアノメーカーが作ったピアノの大きさを比べると、
エラール=2m60
スタインウェイ=2m74
ベヒシュタイン=2m74
プレイエル=2m78
ガヴォー=2m80
ベーゼンドルファー=2m90
ファツィオリ=3m08

結局、エラールも平行弦を廃止して交叉弦・総鉄骨に移行するのだが、やはりエラールの目指したエラールらしいピアノは、平行弦で実現されたのだと思う。
自分で平行弦のエラールを修復することで、何かが見えてくることを願いつつ、果たしてオーケストラの響きを実現できるピアノができるかどうか、確かめてみたいと思っている。

参考資料:Runé BEAUPAIN著 'LA MAISON ERARD - manufacture de pianos 1780-1959'


 
 

2014年3月12日水曜日

エラールの歴史 その14

Maurice Biais作のポスター(1902年)
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)


エラールの歴史 その14

ピエールの死後、妻のマダム・エラールが相続し、所有者となった。
パリ支店の経営は、Eugène Shaeffer(エラールファミリーの中の人)、ロンドン支店はGearge Bruzaudの経営となった。
この年に最初のコンサートホール、サル・エラールが建設された。
エラール社は発展を続け、1872年には315人の職人を抱えるフランス最大のピアノ工場となる(当時プレイエルの職人は231人)。
1890年にロンドン工場(ピアノ部門)を閉鎖した。
その後もエラール・ファミリーとその仲間たちでピアノ製造と販売を続けていったが、1915年前後から経営が困難になっていったようだ。
エラールがこだわって作り続けていた平行弦のピアノは1920年に製造停止(1931年まで注文製作は続けた)となる。
その後、小さなピアノに力を入れるなど、努力は続けたが、1959年Gaveau社に吸収された。

参考資料:
Runé BEAUPAIN著 'LA MAISON ERARD - manufacture de pianos 1780-1959'
RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)

2014年3月10日月曜日

エラールの歴史 その13


Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard
(ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙、Laure Barthel , Alain Roudier編)
 

エラールの歴史 その13

ピエール・エラールは1855年に59歳で死去した。
20歳で叔父のセバスチャンよりロンドン支店の経営を任され、家族と離れて外国で厳しい仕事と向き合い続けたピエール。
叔父の発明を尊敬し、支援し、世に広めようと努力し、特許を真似されまいと闘い、勉強して叔父の発明を引き継いで完成させた人。

ロンドンのピエール・エラールからパリのセバスチャン・エラールに送った手紙が残されており、l'Association Ad Libitumにより活字化され3巻の本になっています。
セバスチャンやピエールのことが少しでもわかるか、と思い、読んでみました。
ピエールは1814年から1831年の間、実に270通もの手紙を叔父に送っています。
セバスチャンやエラールはどんな人間だったのか、どのような人生を送ったのか、そんなことを知りたいと思ったのですが、一方的な手紙を読んでも良くわからないことだらけで、自分の語学力不足もあり、なかなか見えてはきません。
ただ、後世にまとめられて書かれたものとは違い、手紙というのは臨場感があります。
手紙集を読んで、ピエールとセバスチャンの情熱をひしひしと感じたこと、そして彼らの生きた時代の空気を想像できたことで、彼らに少し近づいた気はしています。

200年近く前の手紙を掘り起し、解読して活字にした研究者達の仕事は膨大なものだったと思います。彼らの熱意にも頭が下がりました。

参考資料:
RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)
Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard (ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙、Laure Barthel , Alain Roudier編)

2014年3月9日日曜日

エラールの歴史 その12

エラールアクション
 
鉄のバーと板との組み合わせ鉄骨
 
 
エラールの歴史 その12

セバスチャン・エラールの死後、彼が発明したダブルエスケープメントアクションをさらに改良し、完成させたのは甥のピエール・エラールだった。
1843年の特許取得で、エラールアクションの最終的な型が決まったと言える。
また1850年には、弦のテンションを支えるための、鉄のバーと板との組み合わせ鉄骨の最終的な形が決まり、ロンドンで特許を取得する。

ピエールは研究熱心な技術者だった。
最初はハープの、のちにはピアノの構造を懸命に考えた。
叔父のセバスチャンの発明の速度に付いていくのは簡単ではなかっただろう。
叔父亡き後、アクションをさらに改良し完成させたピーエルは、セバスチャンの片腕だったと言えると思う。

参考資料:
Runé BEAUPAIN著 'LA MAISON ERARD - manufacture de pianos 1780-1959'
Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard (ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙、Laure Barthel , Alain Roudier編)

2014年3月8日土曜日

エラールの歴史 その11

 
セバスチャン・エラール(Engelmann et Graf 作1850)
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 
エラール家の墓
(ウィキペディアより)
 
 
 エラールの歴史 その11
 
1826年にジャン・バティスト・エラールが死去、そして1831年にはセバスチャン・エラールが死去し、ピエール・エラールがパリ支店とロンドン支店の経営を受け持つこととなる。
 
ピアノとハープの職人であり偉大な発明家であったセバスチャン・エラールの生涯は、世に大きな功績を残して幕を閉じた。
叔父の発明の過程を目の当たりにしながら共に経営を進めてきたピエール・エラールは、尊敬する叔父の死を回想してのちにこのように書いた。
「やっと知ることができたと思った時にこの世を去らねばならないのは残念だ」
 

参考資料:RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)
 

2014年3月7日金曜日

エラールの歴史 その10

ジョン・ブロードウッド(初代)
(ウィキペディアより)
 
セバスチャン・エラール
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 
エラールの歴史 その10
 

1824年5月、ピエールはブロードウッドのピアノを一台注文し、ロンドン支店でエラールピアノとの比較を試みた。
ブロードウッドは、中音と高音は美しいがアクションの力が足りないので弦を十分に振動させることができない。
エラールの音はより力強く、音が調和する。

ブロードウッド兄弟(JamesとThomas)がピアノを見に来た。リスト親子も同席した。
リストがエラールピアノを弾いたとき、ピアノが素晴らしく響き、ブロードウッド兄弟は今までこれほど良いピアノを見たことがない、と言った。
エラールのアクションを観察したブロードウッドは、うちの職人たちにはこのアクションの仕事はできないだろう、と言った。


参考資料:
Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard volumeⅢ 1822-1831 (ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙第3巻、Laure Barthel , Alain Roudier編集)

2014年3月6日木曜日

エラールの歴史 その9

リスト(1824年)
(ウィキペディアより)

リスト(1858年)
(ウィキペディアより)
 
 
エラールの歴史 その9

セバスチャン・エラールが発明したダブル・エスケープメントアクションを備えた新しいグランドピアノが完成したのは1823年のことだった。
この年の12月、当時12歳だったFranz Lisztは父親とパリを訪れ、出来上がったばかりのエラールピアノを弾き、感激する。
1824年、リストはロンドンへ行く。
イギリスのピアノを弾いてみたいと言うリストを、ピエール・エラールはブロードウッドの店に連れて行った。
ブロードウッドは当時イギリスで最高のピアノメーカーであり、店も大きく繁栄していた。
リストは、ブロードウッドのピアノを弾いて、とても良いピアノだと言った。
ピエールがリストを連れてエラール社に戻った時、ちょうどパリから届いたばかりのピアノの荷をほどいたところだった。
リストが試弾すると、その素晴らしい音に誰もが感激した。ブロードウッドの音との違いは明らかだった。
ピエールによると、イギリスのピアノの音は重くて粘るような音、セバスチャン・エラールの音ははっきりしていて力強く、輝きがある。

1824年6月21日、12歳のリストがロンドンで初めてのコンサートをした時、セバスチャン・エラールのダブルアクションを備えたピアノを使った。
コンサートは大成功に終わった。
皆が若いリストの素晴らしい演奏に感激し、彼の並外れた才能に驚いた。
エラールピアノは、今までコンサートに使われたピアノの中で一番良いピアノだと絶賛された。

この時から、ピエールはエラールピアノの成功を確信し、ロンドンでもピアノ製造をしたいと準備を始めた。


参考資料:
Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard volumeⅢ 1822-1831 (ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙第3巻、Laure Barthel , Alain Roudier編集)

2014年2月28日金曜日

エラールの歴史 その8

1820年頃のエラール・ハープ
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)

DALVIMARE作曲ハープのための3つのソナタ
出版マドモアゼル・エラール1800年
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 


エラールの歴史 その8

エラールは、ハープ製作の発展にも大変貢献した。
19世紀初頭に、エラールのアトリエでモダンハープが発明される。
モダンハープとは、当時「harpe Erard」と呼ばれたもので、現代のハープの原型となった。

枠の中に弦が張られた竪琴に足ペダルを付けて調を変えられるようにしたのは、1697年バイエルンのGeorg Hochbrukerの発明であった。
初めは、5ペダルシングルアクション(5音を半音ずつ上げられる)だったのが、1720年頃に2ペダルが追加され、7ペダルシングルアクション(7音を半音ずつ上げられる)となる。
エラールはさらに工夫を加え、7ペダルダブルアクション(7音を半音ずつ上げることと下げることができる)を発明した。
この発明により、ハープ演奏の可能性が大きく広がり、ダブルアクションのための曲が作曲されるようになる。

ロンドン支店を経営していたピエール・エラールは、叔父のセバスチャンが発明したダブルアクションのハープを広めるために尽力した。
彼は、自らハープのレッスンを受け、ダブルアクションのための曲を作曲し人前で弾くなどして、エラール・ハープをアピールした。
当時はシングルアクションに人々が慣れていたことや、周囲に競争相手のハープ製作者が多くいたことなどもあり、ピエールの仕事は楽ではなかったようだが、人々は次第にダブルアクションのハープに魅せられ、購入者も増えていく。

参考資料:
RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)
Mon bien cher Oncle - Correspondance de Pierre Erard à Sébastien Erard 1814-1817 (ピエール・エラールよりセバスチャン・エラールへの手紙、Laure Barthel , Alain Roudier編集)

2014年2月18日火曜日

エラールの歴史 その7

ピエール・エラール
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 

エラールの歴史 その7

1810年頃のエラール社パリ支店の経営は楽ではなかった。
Les frère Erardは1810年、フランス政府に400000フランの借金を申し込み、1811年に許可が下りた。
しかしながら1813年にはパリ支店は破産してしまう。
幸い、実績が認められたエラールは会社存続を許可され、借金は繁盛していたロンドン支店の利益から返すことができた。
1814年にジャン・バティスト・エラールの息子ピエール・エラールが、ロンドンのセバスチャンの下へアシスタントに行く。
1815年よりロンドン支店の経営をピエールに任せ、セバスチャンはパリに戻る。

ピエール・エラールは1794年パリに生まれ、父のジャン・バティストと叔父のセバスチャンが亡くなった後、エラール社を引き継ぎ、発展に貢献した2代目である。

参考資料:Runé BEAUPAIN著 'LA MAISON ERARD - manufacture de pianos 1780-1959'



L'histoire d'Erard 7

Vers 1810 les frère Erard ont des difficultés d'exploitation.
Ils demandent au gouvernement impérial un prêt de 400000 francs qu'ils obtiennent en 1811.
Cela n'empêchara pas la faillite de la maison parisienne en 1813.
Mais en raison de la position éminente de la firme et de son savoir-faire, elle est autorisée à poursuivre ses activités, la dette devant êpongée par la Maison londonienne, restée florissante.

En 1814 Pierre Orphée Erard rejoint son oncle à Londres d'abord pour assister et ensuite, à partir de 1815, l'année où Sébastien Erard retourne à Paris, pour y rendre la direction.

Pierre Orphée Erard né en 1794 à Paris prendra la direction d'Erard à Paris et à Londres après les décès de son père Jean-Baptiste et son oncle Sébastien, et apportera  sa contribution à la maison Erard.

documents:  Runé BEAUPAIN著 'LA MAISON ERARD - manufacture de pianos 1780-1959'

2014年2月15日土曜日

エラールの歴史 その6

1790年頃エラールが作っていたアクション
 
 
完成されたエラールのダブルエスケープメントアクション


エラールの歴史 その6

エラールは、1796年ごろからクラヴサン型フォルテピアノの製造を本格的に始めた。
1808年まで263台を製造しているが、イギリススタイルのものだった。
1800年にはハイドンのために、1803年にはベートーヴェンのために、このピアノを製造した。

その後、エラールが改良した新アクションを備えたクラヴサン型フォルテピアノを製造していく。
セバスチャン・エラールはアクションの改良を重ね、1821年にロンドンで、1822年にパリで、ダブルエスケープメントアクションの特許を申請する。
連打を可能にするこのアクションは、今日のグランドピアノアクションの元となるもので、非常に重要な発明である。

さらにセバスチャンは、クラヴサン型の華奢なケースと新アクションのバランスに満足していなかったので、強度を補強するため、金属バーを加えた。 エラールは、発明、改良のために努力を重ね続けた。

参考資料:RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (Alain Roudier/Bruno di Lenna著)


Erard se lance dans une fabrication régulière de pianoforte en forme de clavecin en 1797.
Inspiré de celui de Broadwood, avec un mécanisme de type anglais, cet instrument sera fabriqué à 263 exemplaires jusqu’en 1808.
Il en construit un pour Joseph Haydn en 1800 et un pour Ludwig van Beethoven en 1803.

Après il fabrique le pianoforte en forme de clavecin avec un nouveau mécanisme Erard.
Il dépose un brevet pour une mécanique à double échappement d’abord à Londres en 1821, ensuite à Paris en 1822.
Cette mécanique qui permet de la répétition des touches sera la base de tous les pianos à queue modern.

Cette invention est historiquement vraiment importante.

Sébastien qui est insatisfait de l’équilibre entre le nouveau mécanisme et la structure déjà ancienne du piano en forme de clavecin ajoute les barres métalliques pour renforcer.

Erard ne cesse pas de l’effort pour évoluer le piano.


documents:  RIFIORIR D'ANTICHI SUONI-Trois siècle de pianos (par Alain Roudier et Bruno di Lenna)