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2014年10月25日土曜日

パープの歴史 その9

コンソールピアノ
 1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 1844年製コンソールピアノ (現在修復中)
 

才能ある発明家であり高い技術を持つ製作家であったアンリ・パープは、非常に頑固で、強靭な精神の持ち主で、失敗を重ねても努力をやめない体力と忍耐力を持った人物だったと言えるでしょう。

最後に、彼の言葉をご紹介して、このシリーズを終わりたいと思います。

'J'aspirais à une sorte d'idéal presque impossible à atteindre'
私は、ほとんど到達不可能な一種の理想のようなものを追い求めていた

'la principale ambition d'un fabricant, surtout lorsque le besoin ne le détourne pas de sa route, est d'attacher son nom à des travaux et à des inventions utiles; c'est là ordinairement son seul point de vue'
製作家の野心とは、必要に迫られて道をそれることがなく、自分の名において仕事や役に立つ発明を行うことである、通常それだけが製作家の視点なのである


参考資料:'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '(1845)

2014年10月23日木曜日

パープの歴史 その8

 
1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 
パープが生涯こだわったアクションの形があります。
それは、グランドピアノやスクエアピアノで弦の上からハンマーが叩くアクションです。
彼は、ハンマーが弦の下から叩く場合、ピン板と響板のつながりを切ってハンマーの通り道を作らなければならない、ということに問題を感じていました。
その場所を切る必要がなければ、弦長いっぱいの大きさの響板が取れ、音量が失われずに済むということ、そして楽器の強度も増すという考えです。
加えて、重力を利用した上からの打弦の方が弦に与える負担が少なく、より美しい音色が得られると、経験上わかったそうです。
ただ、打弦した後にハンマーを上に戻すシステムにおいて、満足のいくものに到達するのはとても難しかったそうです。
彼は、このタイプのアクションだけで20種類以上の試作品を作りました。
何年もかけて何度も何度も作り直し続けたのです。
 
試行錯誤の過程で、彼は一音に付き4本の弦を持ちハンマーが上からと下から2本ずつの弦を叩くという形のアクションを備えたピアノも作ってしまいました。
その結果、どうしても上から叩く方が音が良いとの結論に至り、その後は下からのアクションをやめ、上からのアクションをさらに追究していきました。
 
彼のこのアクションがどこまで製品化され、世に広まったかはわかりませんが、最終的に世界中のピアノ製作界では下からのアクションが選択され残ってきた事実があります。
このことから、彼の懸命の研究は成功には至らなかったと言えます。
しかしながら、彼の探究心と情熱、数多くの試作品を作り続ける忍耐力には頭が下がります。 
 
 
参考資料:'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '(1845)

2014年10月21日火曜日

パープの歴史 その7

8オクターブのピアノ
1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 
驚いたことに、パープはこの時代に8オクターブ(97鍵)のピアノを製作しました。
彼は、8オクターブというスケールの広さに意味があるというより、ピアノ全体の音量を増大するために有効だと考えて作ったようです。
M.Fétisは1844年に音楽雑誌の中で、このようなエネルギーを持った楽器を今までに見たことがない、と言っています。
当時パリで、このパープの8オクターブのピアノを2台並べ、4人のピアニストが8手のための曲を演奏したそうですが、これまでに経験したことのない感動を受けたとM.Fétisは言っています。
しかも、「この大迫力にも関わらず、個々の音は明確で透明さを持ち、速いパッセージにおいてもすべての音がはっきりと発音していた」そうです。
 
また、小さいピアノとしては、高さ87cmのアップライトピアノを製作しました。
サロンコンサートでアップライトピアノを使う時、演奏者が聴衆からも見えるようにとの考えもあったようです。
小さなピアノが求められ、1842年には客船用のピアノの注文を複数受け、1台750フランの契約で製作したそうです。 
 
こうして様々な形のピアノを考案したパープですが、大きなピアノでも小さなピアノでも一貫してこだわったことは、小さくても音量を失わないこと、丈夫で長持ちすること、そして複雑なアクションの簡素化でした。
簡素化の考え方には、価格を抑えたピアノを作りたいという希望もありました。
ピアノを、お金持ちだけでなくみんなのものにしたい、というパープの思いがありました。
ただし質は落としてはいけない、そこで考えに考え抜くのでした。
 
 
参考資料:'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '(1845)

2014年10月19日日曜日

パープの歴史 その6

 
 1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 
ジャン・アンリ・パープが行った仕事について、もう少しお話しします。
彼は他の人が考え付かないようなピアノを考案し、実際に製作しました。
彼がこだわったのは、ブルジョワ階級のパリのアパートに楽に収まる小さなサイズのピアノで、おしゃれな家具調のもの、エレガントさとファンタジックさを備えることが重要で、しかもピアノとしての機能を落とさない質の高い楽器、というものでした。
スクエアピアノ、テーブル型ピアノ、アップライトピアノ、中でも特に変わっているのは、楕円形ピアノや丸テーブル型ピアノ、六角形のテーブル型ピアノ、そして半球型ピアノ!
半球型ピアノというのは、ティンパニーのような恰好をしているらしく、たぶん商品化は無理だっただろうと思われますが、1836年に特許を申請しています。
 
また、弦のないピアノにもかなりこだわり、研究していました。
弦があると音が狂ったり切れたりするためメンテナンスが必要となる、もっと安易に楽に使えるピアノができないか。
彼は弦の代わりに金属片を用いて音を出す方法を考えました。
しかし中音や高音では満足のいく音を出すことができたようです(ハープに似た音だそうです)が、どうしても低音の深みを出すことができなかったそうです。
またオルガンのように風を送り、リードを震わせて音を出すやり方も付け加えました。
色々に試行錯誤していましたが、これも商品化は無理だったでしょうか。
弦のないピアノ、メンテナンスの不要なピアノ、という発想は、現代の電子ピアノにも通じるところがあるかもしれないと言っている人がいます。
たぶん彼の考えはこの時代には受け入れられなかったでしょうが、もしかしたら現代の私達の方が理解できるところがあるのかもしれません。
 
参考資料:'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '(1845)

2014年10月17日金曜日

パープの歴史 その5

(Wikimedia Commonsより)
 

1875年にジャン・アンリ・パープが貧窮のうちに死去した後には、パープの会社を継ぐ者はいませんでしたので、このメーカーは1代限りで終わり、人々に忘れられていきました。
今では、彼の発明の重要さを知っているピアノ技術者の間で多少名が知られている程度です。
しかしフランスでは1897年に、彼の仕事がピアノ製作の発展に多大な功績をもたらしたことを忘れないために、パリ13区の通りに「アンリ・パープ通り」という名を付けました。

2014年10月15日水曜日

パープの歴史 その4

 
1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより) 
 
 
やがてパープは、世の中の変化に付いていけなくなります。
1848年頃からは、産業革命により工業化が進んだことで有利となった大メーカーに勝てなくなっていきました。
1855年頃からは業績が傾き始めましたが、ちょうど世間では、フランス革命後に財産を相続していたお金持ちでロマンティストで個人主義のブルジョワ階級が世代交代の時期となり、パープが顧客や擁護者を失っていったことも、その要因となりました。
1863年には自社のコンサートサロンとショールームを開きましたが、うわべを繕うだけのものとなってしまったようです。
加えて、一人残った息子が事業に失敗し、両親が借金を肩代わりする羽目となりました。
1870年に妻が死去した後、パープは5年間一人でアパート暮らしをしましたが、1875年貧窮のうちに病死しました。
彼が亡くなった時に遺されたものは、50台のピアノ(完成品と未完成品)と2つの仕事台、それにひと山の古い道具のみで、全部で50フランにしかならなかったそうです。

2014年10月13日月曜日

パープの歴史 その3

 
六角形のピアノ
1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 
現存するパープの六角形のピアノ

パープは1919年に洋服商の友人の娘Zélie Ficherと結婚しました。
二人の間には3人の子供が生まれたのですが、うち二人は若くして亡くなってしまいます。
とりわけ楽器製作に対する類まれな才能を持っていた末の息子を17歳で失くしたパープの悲しみは大きかったことでしょう。

パープの全盛期は1848年頃まで続きました。
発明に次ぐ発明、多くの特許を申請すると同時に、ブルジョワ階級に売れるおしゃれで小さなサイズのピアノが成功しました。
博覧会で何度も受賞し、人々からは彼の新しい発明を楽しみに注目され、話題となっていました。
一時期はロンドンにも支店を出し、ピアノ販売を広めました。

パープは、大衆、とりわけブルジョワ階級の女性たちの間で人気となりましたが、業界では敵も作ったようです。
彼の試作品が次々に博覧会で発表され、人々の注目を浴びると、不満を抱いたライバル会社たちが結束して邪魔をしたようです。
やがて彼は博覧会で無視されるようになり、自分の仕事を真に評価してほしい、と訴えます。
パープの文章から理解したことですが、すでにこの頃から、コンクールで賞を取るためには権威ある審査員とのコネが必要であり、審査は必ずしも専門的な知識や技術を持った人が真の評価をするものではなかった、ということです。
 
可哀想な話もあります。
彼の発明した「ハンマーフェルト」は1826年にフランスとイギリスで特許を取得したのですが、真面目なイギリス人たちが「ハンマーフェルト」採用にあたり特許料を支払ったのに対し、フランス人たちは巧みに逃れて支払わなかったそうです。
フランス人製作家たちは、「イギリス仕様のフェルト」を使用するのだと言い、それは「パープのフェルト」とは異なるものだ、なぜならイギリス仕様のフェルトは白色なのに対しパープのフェルトは緑色だから、と言い逃れました。 
パープは、特許の中ではフェルトの色を明記していないと言って、フランス人製作家たちの言い逃れを抗議しました。
緑色を使用する理由については、虫を寄せ付けない素材を試すため、と説明しています。

2014年10月11日土曜日

パープの歴史 その2

1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 

Jean-Henri PAPEは1789年、ドイツのSarstedに生まれ、名はJohann Heinrich PAPENといいました。
家は農家でしたが、両親は彼に家具職人の技術を身に付けるための勉強をさせました。
1809年、20歳のパープはパリに移住しました。
革命後のこの時期のフランスは、政府がフランス人のみならず外国人にも自由を与え、広く開かれていた背景があったようです。
パープは、パリに移ってから1817年に自分のピアノ工房を開くまでの間に、プレイエルの工場で5年間働くほか、イギリス旅行を何度もしてピアノ製作の勉強をしました。
ロンドンでは、Shudi(Zumpeの弟子)やBroadwoodから学び、TomkinsonやErard、Petzold、Pfeifferなどの楽器からも多くを学んだようです。

1817年にピアノ工房を始めた頃は、イギリス式のピアノを真似て製作していました。
その後イギリス式のピアノに改良を加え、自分の考えで発展させていきます。
1820年頃、フランスにはすでに30余りのピアノ製作家が存在していましたが、その後の25年間に180メーカーにまで増えるという、ピアノ製作の大変盛んな時期でした。
パープは順調に実績を伸ばしていきました。
1827年頃には75人の職人がパープの工場で働いていました(この頃プレイエル社では30人)が、1834年には150人となり(この頃にはプレイエルに抜かれていた)、1839年には200人で年間300~400台のピアノを生産するまでになりました。
また工場外にも50人の下請けを持ち、部品を作らせていたそうです。
1844年頃には、エラール、プレイエル、ヘルツといったパリの代表的なピアノメーカーたちと並び競い合っていました。

2014年10月9日木曜日

パープの歴史 その1

 
 

 
 
19世紀のパリに生き、ピアノ製作の発展に大きく貢献したジャン・アンリ・パープは、一代しか続かなかったため、ピアノ界ではその名を忘れられています。
しかし、彼の様々な発明のおかげで今のピアノがあることを考えると、決して忘れてはならない人物だと、私は思っています。
 
有名な発明は「ハンマーフェルト」と「交叉弦」です。
それまで革が巻かれていたハンマーにフェルトを巻き豊かな音色を出せるようにしたことと、弦を交叉させることで小さなサイズのピアノでも低音弦の長さを確保できるようになったこと、この二つの発明は、私たちのピアノが出来上がるためにとても重要な革命でした。
 
しかしそれだけではありません。
頭の柔軟な発明家であったパープは、生涯で140もの特許を申請しました。
その中には、ピアノに関する発明だけでなく、他の楽器に関するものや、アトリエで使う木工機械や照明システム、暖房システムについてなど、多岐に渡る発明が含まれます。
ピアノについても、様々な形のピアノを考案し、数多くの試作を経て発表しました。
 
一体彼の頭の中はどんなだったのだろう?一体彼はどんな人物だったのだろう?
その奇想天外な発明と、発明を現実化してしまう技術、そして何度も失敗を重ねながらも試作品を作り続ける根性と忍耐力を考えると、とても尋常の人間とは思えません。
 
残されている資料が少ない中で、私が見つけられるものはごく一部だとは思いますが、できる限りの資料を読みました。
日本ではほとんど語られていないジャン・アンリ・パープについて、少しでも皆様にお話しできたら、パープさんを日本へ招待できた!と言えるのではないか、という気がしています。