2017年9月11日月曜日

ショパンとプレイエル2

1831年のパリ
(gallica.bnf.frより)

1834年のパリ
(fr.wikipedia.orgより)


2. 始まりは1831年

ショパンがパリに来たのは、1831年10月のことでした。
ワルシャワ→ウィーン→ミュンヘン→シュトゥットガルト→ストラスブールと移動し、21歳のショパンは一人の知り合いもいなかったパリにやってきました。
ワルシャワやウィーンの知り合いが書いてくれた紹介状を頼りに、パリの音楽界へと入っていったようです。
11月18日付の彼の手紙の中には、「ピアニストのカルクブレンナーと深く結ばれた・・」という言葉がありました。
ショパンは最初のうち、カルクブレンナーの演奏にとても感激していたようです。

この頃のカミーユ・プレイエルは43歳、1831年4月にMarie Mokeと結婚、11月に父のイグナーツ・プレイエルが死去、と激動の年を送っていました。
青年期はピアニストとして活躍していたカミーユ・プレイエルですが、1819年頃から父の片腕となっていき、1824年には音楽家をやめて父の会社を継ぐ決心をしました。
1826年にイグナーツ・プレイエルが引退、1828年にはカルクブレンナーがプレイエル社の経営に加わりました。
プレイエル社では楽譜出版、様々な楽器販売や貸出を続けながらピアノ製造にも力を入れ、ショパンがパリにやって来た1831年頃はピアノ製造部門が盛り上がってきていた頃でした。
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

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