2017年9月12日火曜日

ショパンとプレイエル3


23歳のショパン
(wikipediaより)


カルクブレンナー
(wikipediaより)



3. ショパンの名がパリに広まるきっかけ

1831年、カルクブレンナーはプレイエル社の一角を利用し、ピアノ学校を開きました。
生徒は8人(男性4人、女性4人)で3年間のレッスンが行われました。
この学校にショパンも参加し、カルクブレンナーに学びます。
最初はカルクブレンナーを高く評価していたショパンでしたが、次第に彼の限界を意識するようになり、独学で自由な奏法を追求していきます。
カルクブレンナーは伝統的、保守的なピアニストであり、ピアノ奏法のメソードをまとめて教本を出版するなど、教育者でもありました。
一方ショパンは、メソードなど必要としない自由で天才的なピアニストであり、カルクブレンナーやリストの奏法には反対でした。
カルクブレンナーの奏法には従わなかったものの、師に対する礼儀は欠かさなかったので、ショパンとカルクブレンナーは生涯親しく付き合いました。

当時のパリでは、外国人の若者がコンサートを開くことは容易ではありませんでした。
カルクブレンナーやカミーユ・プレイエルのおかげで実現したショパンのパリでの最初のコンサートは、1832年2月25日にサロン・プレイエルで開かれ、ショパンは自作のコンチェルトを発表する他、四重奏団やオーボエ奏者、歌手達を交えた様々なプログラムをこなしました。
このコンサートでは6台のプレイエルピアノが使われ、カルクブレンナー作曲の大ポロネーズを6台ピアノで演奏するという豪華な曲目も演奏されました。

このコンサートは大変な反響を呼び、パリの音楽界に新風をもたらしました。
ショパンの演奏は、「他に例を見ないオリジナリティー」「魂がある」「ファンタジーがある」「エレガント」「自由自在にピアノを操る」「優雅で明確で輝かしい」などと評価され、フレデリック・ショパンの名がパリに広まる結果となりました。
この時、リストもコンサートを聴きに来て大変褒めたそうです。

そしてこのコンサートを通してショパンとカミーユ・プレイエルの関係が築かれ、生涯続いていくこととなりました。
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

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