マヨルカ島ヴァルデモーサに展示されている、
ショパンが使ったとされるプレイエル・ピアニーノ
ショパンが使ったとされるプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6668 (1838年製)
(http://gallica.bnf.fr/より)
現在私が修復中のプレイエル・ピアニーノ
製造番号:6720 (1838年製)
プレイエルと関係が深かったショパンは、ジョルジュ・サンドと共にスペインのマヨルカ島に滞在した際、プレイエル社に頼んでピアニーノをパリから取り寄せました。
そのピアノと現在私が修復中のピアニーノとは、製造年が同じで製造番号も近いことから、内容を詳しく調べ比較してみることにしました。
背景その1
ショパンはマヨルカ島に長期滞在するつもりでピアノを送らせたようなのですが、現地の様々な条件の悪さのため滞在を早く切り上げてフランスへ帰ったので、実際にこのピアニーノを使った期間はとても短かったようです。
1838年11月8日からマヨルカ島に滞在していたショパンはパリから送られてくるピアノを待ちに待っていましたが、12月21日にようやくマヨルカ島パルマに到着したピアノは税関で止められ、高い関税を要求されたため値下げ交渉に3週間かかり、実際にピアノがヴァルデモーサのショパンの家に届いたのは、1839年1月15日頃でした。
そしてショパンとサンドがマヨルカ島を去ったのが2月13日ですから、ショパンは1ヵ月足らずしかこのピアノを弾かなかったのです。
フランスへ帰る時にはまた税関での問題が起こると思われたので、このピアノは現地で売られました。
たった1ヵ月しか使わなかったピアノか・・とも思われますが、それでもこのピアノでプレリュードを完成させたこと、バラード2番やポロネーズ2曲、スケルツォ3番などの曲にも着手したことなどを考えると、1ヵ月の中身は我々の想像をはるかに超える深い内容だったのかもしれません。
また、ショパンの短い39年の人生を思うとき、1ヵ月の重さを感じずにはいられません。
実際ショパンは、プレイエルが届くまでの間現地で借りていたスペイン製のピアノに満足できず、プレイエル到着を大変喜んだようですので、やはりこのピアノの意味は大きかったでしょう。
マヨルカ島でのショパンとサンドの生活は、予想に反して苦しいものでした。
島の人々の不親切や意地悪、過酷な気象条件と生活の不便さ、そのため悪化していったショパンの病気・・・など当時の記録を読み想像すると、耐え難い地獄のような生活に思われます。
しかしそれに反して、マヨルカ島の自然環境は楽園のように素晴らしく、雄大な景色や豊かな植生に囲まれ、ショパンとサンドは天国にいるような感覚も味わったのです。
この特殊な環境の中にあって、並外れた感受性を持つ二人の芸術家の仕事がどんなに深く濃い内容のものであったかは、量り知れません。
そのようなショパンの仕事の手助けをしたプレイエルのピアニーノの存在の重さもまた、1ヵ月という時間では説明できないもののように思われます。
(続く)
参考資料:
「マヨルカの冬」ジョルジュ・サンド著、J-B・ローラン画、小坂裕子訳、藤原書店発行
「ジョルジュ・サンドからの手紙」ジョルジュ・サンド、持田明子編=構成、藤原書店発行
200年近く前の歴史的ピアノがこのように美しく(少なくとも見た目は)残っているなんて信じがたいことですね。
返信削除そうですね。しかも、ショパンのピアノは当時パリからスペインのマヨルカ島までを馬車と船で長旅をしていますし、私のピアノはパリから日本まで飛行機とトラックの長旅を経験しています。それでも良い状態が保たれ、私たちに歴史の意味を語ってくれるのです。すごいことですね。明子
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