2017年9月25日月曜日

1838年製プレイエル ピアニーノ アクション18






1838年製PLEYEL pianino 1m15(ショパン時代のプレイエル)
ダンパーの修復に入りました。
オーバーダンパーです。
かなりボロボロで、すべてをやり直す必要があります。
ちなみに、すでにダンパーフェルトは取り替えられた跡が見られ、オリジナルではありません。

2017年9月22日金曜日

1838年製プレイエル ピアニーノ アクション17









1838年製PLEYEL pianino 1m15(ショパン時代のプレイエル)
ウィッペンをロングセンターピンでつなぎ、櫛形プレートに取り付けました。
ブライドルテープをはめました。

2017年9月19日火曜日

ショパンとプレイエル10

ピアノを弾くショパン(1838年)
(wikipediaより)

ショパンの左手
(gallica.bnf.frより)


10. 終わりに、私見

ショパンは生徒を指導する時、「簡単に、簡単に弾きなさい!」「指で歌うのだ!」と言ったそうです。

ショパンの弾き方は、決して力で弾かず、手首を使わず、流れるようで、自由自在で、魂があり、ファンタジーがあり、優雅で明確で輝かしい・・・。
完全に独立した指を持ち、安定して強さのある左手を持ち、演奏時には腕や頭や体の動きが全くない・・・。
決してピアノを叩かないので、絶対にキンキンした音色がピアノから出ない・・・。
格調高く、調和に満ちており、完璧・・・。
「Sylphe musical」「Sylphe du piano」とも言われたそうですが、Sylpheというのはケルト伝説に出てくる空気の精、つまりショパンは「音楽の妖精」「ピアノの妖精」ということになります。

彼についての評の数々からショパン像が浮かび上がってきます。
ピアノの中から現れた妖精が歌を歌うようにピアノを奏でるのですから、軽くてエレガントで輝かしいイメージです。

ショパンは、軽くて指先の微妙な感情が音に直結するようなピアノを求めていたに違いない、と思えます。
ショパンがポーランドやウィーンにいた時代にウィーン式アクションのフォルテピアノを多く弾いたに違いないことと、プレイエルがシングルアクションの流れを大切にしたことが、私の中でつながります。
シングルアクションでは、鍵盤と弦を叩くハンマーとの間をつなぐメカニズムが少なくシンプルなので、指先の感覚がダイレクトにハンマーに伝わります。
ダブルアクションでは、中間にメカニズムを入れたことでハンマーの素早い動きを可能にし、連打がしやすく反応の良い弾きやすいタッチを持ちます。
シングルアクションではハンマーがもたつくので、圧倒的に弾きにくいのですが、有能な指を持っている場合には、上手に弾けてしまいます。
繊細な感覚と有能な指を持つピアニストにとっては、指先の感覚が直に伝わるシングルアクションの方が、より微妙な感情を表現できる、指の息づかいが音色に現れるような歌い方ができるのかもしれません。
微妙なことにはこだわらず、もっと大きく音楽をとらえ、ダイナミックさを求めるピアニストにとっては、ダブルアクションの方が神経質にならずに済み、大きな流れの音楽を実現しやすいでしょう。

イグナーツ・プレイエルとカミーユ・プレイエルは、イギリス式シングルアクションにこだわり続けました。
シングルアクションの方がよりダイレクトに奏者の思いが伝わると考えていました。
1863年、Auguste Wolffの時代に、プレイエル社は世の中に遅れてダブルエスケープメントアクションを取り入れましたが、ダブルアクションに移行していく中でも、シングルアクションに近いようなタッチを求め続けたと思われます。
いつまでもロングセンターピンにこだわり続けたのも、その理由からなのではないか、という気が私にはしています。
ロングセンターピンは調整しにくく不便ですが、フレンジ型のセンターピンより抵抗が少なく軽い動きが得られるのではないか、と思うのです。
そしてそれが、ショパンの求めたタッチを受け継ぐ流れの一つではないでしょうか。
本の著者はここまでは言っていませんので、あくまでも私の個人的な意見で、正しいかどうかは分からないのですが。

ショパンが、「元気な時にはプレイエルを弾く」というのは、指先の微妙な感覚までコントロールできるくらい元気な時には、プレイエルを弾くと思う通りの音色を出せる、ということなのです。
「元気のない時にはエラールを弾く」というのは、エラールはどう弾いても美しい音色が出るからだそうです。
エラールは、叩いても打っても、指先の神経を尖らせなくても、いつでも同じように美しい音色で歌える、響きに満ちた楽器でした。
ショパンから33回のレッスンを受けたEmilie von Gretschという人は、「自分のエラールピアノで弾くのと同じ弾き方でショパンのプレイエルピアノを弾くと、硬くて粗暴で汚い音が出てしまう。」と言ったそうです。
いつでも美しい音の出るエラールピアノも素晴らしいですが、どうも元気な時のショパンは違うものを求めていたようです。

ショパンの人生、プレイエルの人生から多くのことを学びました。
今後も修復を通してピアノと向き合いながら、プレイエルピアノに込められた先人の思いを感じることができたらと思います。
歴史の異なる様々なピアノが存在し、私たちに何かを語りかけてきます。
違いを認め、個性を見つけ出し、活かす修復をしていきたいと思っています。
(終わり)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月18日月曜日

ショパンとプレイエル9

ワルシャワのショパン博物館に保存されている、ショパン最後のピアノ
(wikipediaより)

マヨルカ島のショパン博物館に保存されている、ショパンが使ったピアニーノ
(wikipediaより)



9. ショパンのピアノ

ショパンが使ったピアノについては、多くの研究者が相当な熱意を持って調べてきました。
謎も多いようですが、現在残されているピアノでほぼ確実にショパンが使ったことがわかっているのは、プレイエルピアノ7台、ブロードウッド1台で、いずれも博物館に保管されています。
それ以外にも、ショパンは数多くのピアノを弾きました。
彼は移動するたびにピアノを取り替えましたし、ピアノが日々改良され、毎年新しいピアノが生み出されていた時代ですので、ショパンも次々と新しいピアノを迎え、生涯で随分多くのピアノを持ちました。
そのすべての記録はありませんので、一体ショパンが何台のピアノを弾いたのかは分かりません。
ただ、その大部分がプレイエルピアノで占められていたことは確かです。

ショパンはなぜプレイエルが好きだったのでしょう?
仕事上の相互利益があっただけでプレイエルと付き合っていたわけではないことは、これまで見てきて明らかです。
プレイエルピアノなくしてはショパンの曲は生まれず、ショパンなくしてはプレイエルピアノは発展しなかった、それほど深い関係の理由は何なのでしょう?
そして果たしてプレイエルピアノに、ショパンの痕跡が残っているのか?
残っているのならそれは何なのか?

この本の中で、著者が一番探りたい問題はそこにありました。
著者もはっきりとした結論は出していません。
著者は、ショパンが弾いたピアノを研究することや、その時代の楽器でショパンを演奏してみることが大切なのはもちろんのことだが、それにとどまらず、修復された昔の楽器を演奏することや、ショパンの時代にはまだなかったモダンピアノでショパンを演奏してみることもまた、ショパンを理解する上で参考になると言っています。
プレイエル社の資料から読み取れることを検証し、またショパンの楽譜から読み取れることを考察し、多方面から総合的にアプローチした著者は、ショパンの曲は当時のプレイエルピアノのキャパシティーを超えていた、と考えています。

ではショパンの求めるピアノとはどんなピアノだったのか?
ショパンの音楽を真に実現できる楽器とはどんな楽器なのだろう?
後世のプレイエルはそれを実現できただろうか?他のメーカーはどうだろうか?

本の最後は、「おそらくすべては始まったばかりだ。」という言葉で結ばれています。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年

2017年9月17日日曜日

ショパンとプレイエル8

「ショパンの死」F.J.Barrias
(gallica.bnf.frより)

「死の床にあるショパン–Albert Graeffeのデッサンより)
(gallica.bnf.frより)

1840年のマドレーヌ寺院
(gallica.bnf.frより)

ショパンの墓
(wikipediaより)


8. 別れ

二人に別れの時がやってきました。
ショパンはプレイエルより22歳も若いのに、先に天国へ旅立ってしまいました。
旅立つ1年前の1848年11月、ロンドン旅行からパリへ帰るとき、憔悴しきったショパンは友人に手紙で、「どんなピアノでも良いから木曜の夜に送り届けてくれるよう、プレイエルに伝えて欲しい。ピアノには覆いをしておいてくれ。金曜日にはスミレの花束を買ってサロンを良い香りにしておいておくれ。私が家に帰ってサロンを横切り寝室へ入るまでの短い時間に、少なくとも少しは詩的な感じを受けられるように。私は間違いなく長時間眠るだろう。」と言ったそうです。
その時プレイエルがショパンに送ったピアノが、ショパンの最後のピアノになりました。
1849年10月、最期の時には、親しい友人たちがショパンに会いに行きました。
カミーユ・プレイエルも行きました。
息を引き取る前々日には、歌手のDelfina Potockaがピアノを弾きながら歌をショパンに聴かせました。
ワルシャワから姉のLudmikaも来ました。
そして、10月17日、ショパンは息を引き取りました。

マドレーヌ寺院で葬儀の後、ペール・ラシェーズ墓地まで柩を運びました。
当時の習慣で、故人の柩にかぶせる布の四隅に黒いひもを付け、生前もっとも親しい友人だった4人がそれを持って歩く、というものがあったのですが、カミーユ・プレイエルはその中の一人となりました。
他の3人は、ベルリオーズ、フランショーム、マイアベーアでした。
プレイエルが呼びかけ、ドラクロワが委員長となり、ショパンの墓に記念碑を建設する会が結成され、一周忌の命日に設置されました。
また、ショパンの墓の管理はプレイエル社が引き受けました。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月16日土曜日

ショパンとプレイエル7

カミーユ・プレイエルの筆跡
(gallica.bnf.frより)


ショパンの筆跡
(gallica.bnf.frより)



7. すれ違い

仕事仲間としても友人としても協力し合っていたショパンとプレイエルの間にも、溝ができ仲違いをした時期がありました。
1838年〜1839年ごろのことです。
ショパンがジョルジュ・サンドとのマヨルカ島滞在を終え、サンドの館のあったノアンへ移る頃でした。
ショパンはお金に困っており、作曲した楽譜の版権を高く売ろうとしました。
いくつかの出版社に交渉を持ちかけたのですが、長年の付き合いがあったにも関わらずプレイエルにはとりわけ高値を言ったそうです。
それでプレイエルが怒ったのかどうかは、記録には残っていませんが、ショパンの手紙に対し2ヶ月くらい返事をせず沈黙していたようです。
ちょうどその頃、プレイエルも経済難に陥っており、以前のようにショパンの楽譜出版を保証できない事情もあったそうです。
結局、マヨルカ島へ旅立つ前にプレイエルに約束していた24のプレリュードの版権も別の出版社が買い、1839年の夏にCatelinという会社から出版されました。

1839年5月にノアンのサンドの館へ到着した時には、サンドがショパンを喜ばせようと内緒でプレイエルに連絡し送らせておいたピアノが届いており、ショパンは喜びこのピアノで多くの曲を作曲しました。
その後ショパンがパリに戻った後も、1841年〜1846年まで毎夏をノアンで過ごしたため、プレイエルは毎年夏になると新しいピアノをノアンへ送り、秋にはパリへ引き取りました。
1841年には、送られたピアノをショパンが気に入らず、怒ってピアノを拳で叩いたという話があります。
その時ショパンが友人に宛てた手紙の中には、「エラールに乗り換えようか・・・」とこぼすフレーズもあったとか。
しかし結局プレイエルが別のピアノをすぐに送り、ショパンの機嫌も直ったそうです。

馬車でピアノを運んでいた時代ですので、ピアノを何度も送るのは相当大変なことだったと想像します。
様々な努力のおかげで、二人の関係も修復されたようですね。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月15日金曜日

ショパンとプレイエル6

ショパンのサロンコンサート
(wikipediaより)

リストのコンサート
(gallica.bnf.frより)


6. 仕事仲間として(2)

カミーユ・プレイエルにとっても、ショパンは重要な仕事仲間でした。
当時のパリには、一番老舗のエラールを筆頭として数多くのピアノ製作会社がありました(30とも100とも言われている)が、アーティストと組んでピアノ販売やコンサート企画が行われたため、有名アーティストの取り合いでした。
特に大きなライバル会社であるエラールはリストと組んでいましたので、対するプレイエルにとってショパンが重要だったことは想像できます。
リストは、作りが頑丈で音量が大きく、安定したタッチを持つエラールがお気に入りで、大きなコンサートホールでの演奏を好みました。
ショパンは、タッチが安定せず弾くのが難しいが、うまくコントロールした場合はより繊細なニュアンスを出すことのできるプレイエルが好きで、大きなコンサートよりサロンでのアットホームなコンサートを好みました。

このように、ピアノ製作家とピアニストはお互いに影響し合いながら個性を作っていくという、切っても切れない関係にありました。
エラールピアノなしにはリストの曲はあり得ませんでしたし、プレイエルピアノなしにはショパンの曲は生まれませんでした。
同時に、リストなしにはエラールピアノの発展はあり得ませんでしたし、ショパンなしにプレイエルピアノの個性は出来上がりませんでした。

また当時はまだコンサートホールでの演奏より、お金持ちの家でのサロンコンサートが主流でしたが、そのような場所でショパンがプレイエルピアノを弾いて、プレイエルピアノの宣伝をし、販売につなげることも多かったと思います。
さらに、ショパンはピアノ教師としても活躍し多くの生徒を持っていましたので、生徒のためにプレイエルピアノを選んだり、自分の使っていたピアノが古くなると弟子やショパンのファンだった上流階級の女性に売ったりしました。
プレイエル販売台帳の中には、なんと60人ものショパンの生徒や友人の名前が見つかったそうです。
中には複数台のピアノを購入した人もいます。
ショパンの生徒は180人程度いたと言われている(うち50人くらいは確実ではない)そうですので、少なくとも3人に1人はプレイエルピアノを買ったことになります。
プレイエルピアノの拡がりは、ショパンの力なくしては遂げられなかったかもしれません。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月14日木曜日

ショパンとプレイエル5

「24のプレリュード」
フレデリック・ショパンよりカミーユ・プレイエルに献呈
(gallica.bnf.frより)

「英雄ポロネーズ」1842年
(wikipediaより)


5. 仕事仲間として(1)

ピアニストのショパンとピアノ製作家のプレイエルは、お互いの仕事には欠かせない仲間同士でした。
ショパンは、作曲活動や演奏活動で常にピアノを必要としました。しかもどんなピアノでも良いわけではなく、作曲のためのインスピレーションが湧く音でなければならないし、自分の音楽表現を十分に実現できる音やタッチのピアノでなければなりません。
当時のピアノ製作業界は、試行錯誤を重ねながら発展していた時代にあり、完成し切ったピアノばかりがあったわけではありません。
プレイエルも創業してから20年余りしか経っていませんでしたので、常に試行錯誤、失敗も多くあったと思います。
プレイエルが送ってきたピアノを気に入らなかったショパンが怒って取り替えさせたという話もあります。
ショパンは繊細な感性の持ち主でしたし、気難しい面もあり注文が多かったことでしょう。
プレイエルは、ショパンの行く先々にピアノを送りました。パリの住まいのみならず、ジョルジュ・サンドと行ったスペインのマヨルカ島、ジョルジュ・サンドと過ごしたノアン、晩年に滞在したロンドン・・・と、どこへでもショパンの気に入るピアノを送りました。
マヨルカ島では最初、現地のピアノを調達して使っていたようですが、ショパンが気に入らず、プレイエルピアノが届くまで作曲活動が進まなかったそうです。
またロンドンでは、ブロードウッドやエラールなど質の高いピアノがあり、ショパンも評価して弾いていたそうですが、やはりフランスから送られたプレイエルピアノを多く弾いたようです。
ショパンの作曲活動はプレイエルピアノなしではあり得ませんでした。ショパンの曲はプレイエルピアノなしでは生まれませんでした。

また、プレイエル社は楽譜出版業もしていましたので、ショパンの曲の版権を買い、出版をしました。
ショパンは他にも取引のあった出版社を幾つか持っていましたが、プレイエル社との関係は中でも重要だったと思われます。

その他にも、プレイエルピアノがショパンの紹介で売れた時には価格の10パーセントのコミッションをもらうという契約もしており、プレイエルの台帳にはきちんと記載されています。
ショパンは多くのプレイエルピアノを売り、コミッションを受け取ったようですので、貴重な収入源となったことでしょう。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年



2017年9月13日水曜日

ショパンとプレイエル4

カミーユ・プレイエル
(gallica.bnf.frより)

フレデリック・ショパン
(gallica.bnf.frより)

4. ピアニストとして

カミーユ・プレイエルは優秀なピアニストでした。
作曲家でありピアニストであった父のイグナーツ・プレイエルに連れられて、1805年にウィーン旅行をした際には、ハイドンやベートーヴェンにも会い、17歳のカミーユはベートーヴェンの演奏に感銘を受けたそうです。
1826年、36歳の時に音楽家の道を諦め父のプレイエル社を継ぐ決心をしたそうですが、後の1834年に「カミーユ・プレイエルは、もしピアノ製作の仕事に没頭しなければ、今頃我々の最も優秀なピアニストの一人になっていたことだろう・・・」と音楽雑誌の記事に書かれています。
また、ショパンもプレイエルの演奏を高く評価しており、「今日モーツァルトの弾き方を知っている人はプレイエル以外にはいない。私が彼と一緒に4手のためのピアノソナタを演奏する時、私は彼から学ぶのだ。」と言ったそうです。

二人の弟子であったGeorges Mathiasは、二人の間に感じた類似性を後に思い出しながら書き残しています。
「音楽的な感情の繊細さや優雅さにおいて、ショパンとプレイエルは同等だったと思う。私はこれまで、どんなに二人が完璧に類似していたかを言い表し得たことがない。彼らは、同一のピッチで調律され完全に調和した2台の楽器のようだったのだ。お互いによく理解し合っていた。」
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


2017年9月12日火曜日

ショパンとプレイエル3


23歳のショパン
(wikipediaより)


カルクブレンナー
(wikipediaより)



3. ショパンの名がパリに広まるきっかけ

1831年、カルクブレンナーはプレイエル社の一角を利用し、ピアノ学校を開きました。
生徒は8人(男性4人、女性4人)で3年間のレッスンが行われました。
この学校にショパンも参加し、カルクブレンナーに学びます。
最初はカルクブレンナーを高く評価していたショパンでしたが、次第に彼の限界を意識するようになり、独学で自由な奏法を追求していきます。
カルクブレンナーは伝統的、保守的なピアニストであり、ピアノ奏法のメソードをまとめて教本を出版するなど、教育者でもありました。
一方ショパンは、メソードなど必要としない自由で天才的なピアニストであり、カルクブレンナーやリストの奏法には反対でした。
カルクブレンナーの奏法には従わなかったものの、師に対する礼儀は欠かさなかったので、ショパンとカルクブレンナーは生涯親しく付き合いました。

当時のパリでは、外国人の若者がコンサートを開くことは容易ではありませんでした。
カルクブレンナーやカミーユ・プレイエルのおかげで実現したショパンのパリでの最初のコンサートは、1832年2月25日にサロン・プレイエルで開かれ、ショパンは自作のコンチェルトを発表する他、四重奏団やオーボエ奏者、歌手達を交えた様々なプログラムをこなしました。
このコンサートでは6台のプレイエルピアノが使われ、カルクブレンナー作曲の大ポロネーズを6台ピアノで演奏するという豪華な曲目も演奏されました。

このコンサートは大変な反響を呼び、パリの音楽界に新風をもたらしました。
ショパンの演奏は、「他に例を見ないオリジナリティー」「魂がある」「ファンタジーがある」「エレガント」「自由自在にピアノを操る」「優雅で明確で輝かしい」などと評価され、フレデリック・ショパンの名がパリに広まる結果となりました。
この時、リストもコンサートを聴きに来て大変褒めたそうです。

そしてこのコンサートを通してショパンとカミーユ・プレイエルの関係が築かれ、生涯続いていくこととなりました。
(続く)


参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年