2017年9月17日日曜日

ショパンとプレイエル8

「ショパンの死」F.J.Barrias
(gallica.bnf.frより)

「死の床にあるショパン–Albert Graeffeのデッサンより)
(gallica.bnf.frより)

1840年のマドレーヌ寺院
(gallica.bnf.frより)

ショパンの墓
(wikipediaより)


8. 別れ

二人に別れの時がやってきました。
ショパンはプレイエルより22歳も若いのに、先に天国へ旅立ってしまいました。
旅立つ1年前の1848年11月、ロンドン旅行からパリへ帰るとき、憔悴しきったショパンは友人に手紙で、「どんなピアノでも良いから木曜の夜に送り届けてくれるよう、プレイエルに伝えて欲しい。ピアノには覆いをしておいてくれ。金曜日にはスミレの花束を買ってサロンを良い香りにしておいておくれ。私が家に帰ってサロンを横切り寝室へ入るまでの短い時間に、少なくとも少しは詩的な感じを受けられるように。私は間違いなく長時間眠るだろう。」と言ったそうです。
その時プレイエルがショパンに送ったピアノが、ショパンの最後のピアノになりました。
1849年10月、最期の時には、親しい友人たちがショパンに会いに行きました。
カミーユ・プレイエルも行きました。
息を引き取る前々日には、歌手のDelfina Potockaがピアノを弾きながら歌をショパンに聴かせました。
ワルシャワから姉のLudmikaも来ました。
そして、10月17日、ショパンは息を引き取りました。

マドレーヌ寺院で葬儀の後、ペール・ラシェーズ墓地まで柩を運びました。
当時の習慣で、故人の柩にかぶせる布の四隅に黒いひもを付け、生前もっとも親しい友人だった4人がそれを持って歩く、というものがあったのですが、カミーユ・プレイエルはその中の一人となりました。
他の3人は、ベルリオーズ、フランショーム、マイアベーアでした。
プレイエルが呼びかけ、ドラクロワが委員長となり、ショパンの墓に記念碑を建設する会が結成され、一周忌の命日に設置されました。
また、ショパンの墓の管理はプレイエル社が引き受けました。

(続く)

参考資料:' Chopin et Pleyel '  Jean-Jacques Eigeldinger著、Fayard出版、2010年


0 件のコメント:

コメントを投稿